前回からの続き。
前1325 - 1321年頃 アイ(Ay)
前1321 - 1293年頃 ホルエムヘブ(Horemheb)
アイ
ツタンカーメンが若くして死んでしまった(ミイラからの推測で19歳か20歳)。
残された正妃アンケセナーメン(アンケスエンアメン)は、アイと結婚させられることを嫌って、ヒッタイトの王子と結婚する交渉をしたが、王子はエジプトへの旅路でアイかホルエムヘブに謀殺されてしまう。 (このことは「[ヒッタイト新王国① シュッピルリウマ1世まで(https://rekishinosekai.hatenablog.com/entry/2021/05/27/120542)」にも書いた。)
結局アンケセナーメンはアイと結婚することになる。エジプト新王国時代の慣習により、王家の血統を持つ女性と結婚することで王位継承権を得ることができる。アイはこれをもって王になった。
しかし、アイはわずか4年で死んでしまった。
ホルエムヘブ
アイの後を継いだのはホルエムヘブ。彼はムトノメジット(アクエンアテンの正妃ネフェルティティの妹 *1 )と結婚することにより、王位継承権を得る。
彼はアイと同じくツタンカーメン治世の重臣だったが、基本的に、その治世より行なってきた政策を継承した。
ホルエムハブは、「アマルナ革命」のため混乱した国内の行政および経済の再建をもっとも重要な課題とした。ホルエムハブ王の勅令によると、官僚の綱紀は乱れ、租税を着服横領し、不正な請求によって私服を肥やしていた。王は不正行為を厳しく取り締まり、「軍隊のえりぬき」を官僚や神官に登用し、世襲貴族こそ有能な官僚を供給してきたという事実を認めて、官僚の世襲の権利を尊重することとした。こうして官僚組織を整備し、王の無制限な意思を抑えるシステムを再建した。
出典:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p559(尾形禎亮氏の執筆部分)
また宗教面ではアメン信仰を復活させるとともにアメン神官団の特権も回復させたが、ラー神などの他の神々と均衡を図ろうとした。その一方でテーベのアテン神殿は解体され、アテン神を他の神々のひとつの地位まで下げた。
以上のように、王みずからの権力を制限するなど国政を調整・整備し、政策は成功したようだ(少なくとも国難と言われるような事件は発生していない)。
政策以外の話として、先代王アイの墓を破壊し *2 、葬祭殿を我がものにし、アイがツタンカーメンから横領した巨像も我がものにした*3。
ホルエムヘブはツタンカーメン治世に「王の後継者」という称号を持っていたのだが、後継はアイだったことや *4、アイが後継者に軍司令長官のナクトミンを指名していたことなどを踏まえると(ホルエムヘブはナクトミンを打倒して王になった)*5、ホルエムヘブがアイに対して相当の恨みを持っていたことは想像に難くない。
ただし、目的は恨みを晴らすだけではなかった。
こうして彼はアクエンアテン王からはじまる4人のアマルナの王に関する記録を完全に消し去ろうとした。自分の統治をアメンヘテプ3世の没後から始まったとし、アマルナの諸王の統治の期間も自分の治世に数え入れたのである。そのため、アマルナ時代の王は、アビドスとカルナクのラメセス時代の王名表には全く登場しない。
- ラメセス時代とは第19王朝と第20王朝の期間のこと。2つの王朝の王の11人がラメセス(ラムセス)という名前だったのでこのように言われる。
ホルエムヘブは子供がいなかったので腹心であった軍司令官パ・ラメス(のちのラムセス1世)を後継に指名し、スムーズに継承された。
第18王朝はホルエムヘブで終わり、ラムセス1世から第19王朝が始まる(ラムセス1世とその王妃シトレは両方とも平民出身で第18王朝の血統が断絶した)。第19王朝の王たちはホルエムヘブを創始者とみなしたようであり、彼の意図はこの王朝に受け継がれた。
第18王朝の次代は「王権vsアメン神官団」という権力争いのなかで大きく揺れ動いたわけだが、その終焉はまったく地味に終わった。