歴史の世界

エジプト第19王朝① 初代からラメセス2世まで

前回からの続き。

前回も書いたが、第18王朝の最期の王ホルエムヘブは子供がいなかったので腹心であった軍司令官パ・ラメス(のちのラムセス1世)を後継に指名し、スムーズに継承された。

ラムセス1世とその王妃シトレは両方とも平民出身で第18王朝の血統が断絶する。そして彼が第19王朝の初代とみなされている。

第19王朝はホルエムヘブの遺志を継承した。すなわちアマルナ革命を否定し、アマルナ革命の痕跡の削除に努めた。ホルエムヘブはアクエンアテンツタンカーメン、アイの3人の王の歴史も削除したが、第19王朝はこれも継承した。

第19王朝の王たちはホルエムヘブを創始者とみなしたようであり、彼の意図はこの王朝に受け継がれた。

前1293 - 1291年頃 ラメセス1世
前1291 - 1278年頃 セティ1世
前1279 - 1212年頃 ラメセス2世

出典:ファラオの一覧 - Wikipedia

セティ1世

初代ラメセス1世は即位後数年で亡くなり、息子のセティ1世が継承した。

セティ1世はシリア・パレスチナとヌビアの他、リビアにも遠征を行なっているが詳細は分かっていない。カルナック(テーベ)のアメン大神殿の外壁の一部にセティ1世がカデシュ(シリアの都市の一つ)を占領した描写があるが、本当に占領したのか、占領の維持に失敗したのかは分かっていない。

セティ1世は他の王と同じく多くの建造物を造っているが、その中でも特に注目されているのが、王家の谷の王墓だ。この王墓は古代エジプトにおいて最大のもので、壁や柱に彩り豊かな浮き彫り(レリーフ)とヒエログリフで埋め尽くされており、その壮麗さと装飾技術は最高級のものとされる。

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セティ1世王墓に描かれていた壁画に残るセティ1世の姿(復元)

出典:エジプト第19王朝 - Wikipedia

1817年にイタリア人考古学者ジョヴァンニ・バティスタ・ベルゾーニが発見したときは保存状態はほぼそのままの状態だったという(その後もろもろの事情で荒らされた。「古代エジプト王セティ1世の墓、原寸大で再現 3Dプリンターで - SWI swissinfo.ch」参照)。

ラメセス2世

ラメセス(ラムセス)2世は、古代エジプトの最高のファラオ、またはトトメス3世と並び賞される王とされる。

彼の治世は67年だが、前の20年が戦争期、残りが建築期と別けることができる *1

ラメセス2世もホルエムヘブからの悲願であるアムル州(南シリア)奪還を目指した。

即位4年から始まるアジア遠征において、最も有名な戦いは即位5年に「カデシュの戦い」と呼ばれるものだ。この戦いは王が建築あるいは増築した神殿に描かせた浮き彫りあるいは銘文にあるので有名だ。これらに書かれている「記録」は、王が「ただひとり」で3500台の敵の戦車を河に追い落としたというものだが、実際はカデシュの占領は果たせなかった。

シリア・パレスチナ方面の戦いはこれ以降も大勢は変わらず、結局のところ治世21年(1269年頃)に南シリアの宗主国ヒッタイトと平和条約を結ぶことによって、この方面の戦いが終了した。(尾形氏/p566-568)

条約を結ぶ提案は両者が「相手から提案された」と記録しているが、アッシリアや「海の民」の動きが活発化してきたので、これに対処するために停戦したと思われる。

ラメセス2世はこの方面以外にヌビア・リビア方面の遠征も行なったが詳細は分からない。国内に影響を及ぼすほどのものではなかった。

最大の敵であるヒッタイトとの平和条約は長期に亘り保たれ、これによりエジプトの平和も長期に亘り保たれた。

首都ペル・ラメセス

ラメセス2世はナイルデルタの東部に新しい首都「ペル・ラメセス」を建設した(ラメセスの家、ラメセスの都市の意)。この場所はヒクソス政権時代の首都アヴァリスの近くにあり、父王セティ1世の頃からアジア遠征の軍事拠点であった。

しかし、ヒッタイトとの平和条約以降、アジアとの交易が盛んになり、この地が首都として選ばれた。

ペル・ラムセス市の人口は30万人を超え、古代エジプトの大都市の一つとなった。その後、ペル・ラムセスはラムセス2世の死後その息子であるメルエンプタハ王が継ぎ、エジプト第19王朝が崩壊したのちもエジプト第20王朝歴代ファラオの都となって1世紀以上にわたり繁栄したが、後にナイル川の流れの変化などによって衰退し、エジプト第3中間期のエジプト第21王朝の時代になると王都としての機能が放棄された。その後、残された建造物の残骸は、同じくナイルデルタ地域の王都であったタニス(Tanis)の建設資材として流用され、現在でもタニスにおいて以前はペル・ラムセスにあったものが残されている。

出典:ペル・ラムセス - Wikipedia

ラメセス2世の建設期

戦争を断念したラメセス2世のありあまる勢力のはけ口は、平和によってもたらされた豊かな経済力を投入しての建築活動にあてられた。現存するエジプトの遺構のほとんどすべてに、ラメセス2世の活動の跡を示す王名が発見されるといってよい。王の彫像、とくに巨像も、あちこちで発見される。王の巨像が発見された場合、ともかくラメセス2世の像と答えておけば、正解の確率はきわめて高いといわれている。ただし、建物にしても彫像にしても、先人のものに自分の名を刻んだだけの例も多い。

出典:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p569(尾形禎亮氏の執筆部分)

先代までの王はアマルナ革命の関係した王たちの歴史を消すために彼らの名前を削って自らの名前を刻した。しかし、ラメセス2世はそうではなく、見さかい無く他の王の記念碑に自分の名前を刻ませた。*2

ラメセス2世は全土に建築物を建てたが、中でも最も大きく、有名なものはアブ・シンベル神殿だ。

砂岩でできた岩山を掘り進める形で作られた岩窟神殿であり、外部は岩山を高さ約20mの椅座像が掘り出されている。

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アブ・シンベル大神殿。青年期から壮年期までの4体のラムセス2世像が置かれている。左から2体目の手前にある岩塊は2体目の頭部の一部

出典:アブ・シンベル神殿 - Wikipedia

内部も精緻に造られている。

この神殿では、10月22日と2月22日の年に2回、太陽の光が神殿内部を通過し、神殿の壁と奥の4体の像のうち、冥界神であるプタハを除いた3体を照らすように設計されたと考えられている。現在はその日付の1日後にこの現象がみられ、観光の目玉となっている。神の化身としての王の力は、太陽光のエネルギーによって活性化し強化され、ラムセス2世はアメン=ラーとラー・ホルアクティに並ぶ力を得たと考えられている。

出典:アブ・シンベル神殿 - Wikipedia




ラメセス2世が古代エジプト最高の英主というのは、おそらく長期に亘る平和をもたらしたファラオということなんだろう。

*1:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p565(尾形禎亮氏の執筆部分)

*2:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p197