前回からの続き。
制限戦争と絶対戦争(第4章)
まずは日本クラウゼヴィッツ学会からの引用
クラウゼヴィッツは戦争理論において、「絶対的戦争」は戦争本来が持っている原理を抽出した純粋な概念として規定し、それに対する「現実の戦争」では、戦場でおこる偶発的事象、勇気や臆病さなどの人間の精神性、判断のあいまいさなどを正当に認めたのである。
わかりやすく二種類の戦争を上下であらわすと、クラウゼヴィッツは「絶対的戦争」を戦争本来の姿として最上部に位置付け、「現実の戦争」である制限戦争※のすべてはそれ以下のどこかに位置付けられるとした。「絶対的戦争」の概念は、現実におこるあらゆる戦争の性質や規模を判断し、これに正しく対応するための指標として使用されるのである。
※制限戦争とは、敵の領土の一部占領など限定された目的・目標のために戦う戦争のことである。
「制限戦争」=「現実の戦争」=「敵の領土の一部占領など限定された目的・目標のために戦う戦争のこと」
制限戦争=現実の戦争、つまり実際の戦争は国内や周辺諸国の政治(情勢・社会なども含む)によって制限・限定される。クラウゼヴィッツは「戦争は政治目的における手段」と言っている。
これに対して「無制限の戦争」が「絶対戦争」(=絶対的戦争)になる。
「絶対的戦争」は、相手の完全な打倒をめざす極限的な戦争を意味している。この場合、クラウゼヴィッツは最終的な決着だけが重要であり、途中の状態がいかに悪くても最後に勝利がえられればよいという。絶対的戦争では、個別の戦闘は最終的に相手を打倒できた場合にだけ価値がある。(出典:同上)
基本的には軍隊どうしの純粋なガチのタイマンだと。
クラウゼヴィッツが強調したのは、制限戦争を戦うかどうかは自国だけで決まるのではなく相手次第であるという事実……つまりもし相手が自分の目的を達成するために最大限の力を投入するのであれば、こちらも同じように戦わなくてはならないということだ。この場合には「絶対戦争」へとエスカレートする論理を受け入れなければならなくなる。
敵(相手)が政治的な妥協を図るとか、理性的判断ができないとか、こちらの殲滅を目的にしているなどの場合、「絶対戦争」に近い状況になる可能性がある。クラウゼヴィッツは『戦争論』の読者(=指揮官)に、このことを予め想定しておくべきだと主張している。
絶対戦争の状況にならなくても、実現可能な最悪を想定して戦略なり戦術なりを考えなくてはならない。現実の戦争は「霧」という用語に表せられるように、千差万別の状況を産み出す可能性がある。結局のところ、あらゆる考えうる状況の未来を考えなければいけないということになる。
指揮官は「絶対戦争」を考えるべき、政治家は「絶対戦争」を止めることを考えるべき(第4章)
「絶対戦争」を戦うということは、政治指導者が軍隊に要求する可能性の一つでしかなく、おそらくは最もありそうもない要求ではあるが、政策上の必要性がある制限戦争であっても、それを効果的に行うためには、軍隊の指揮官たるものは絶対戦争を理論上の可能性としてつねに意識しておかなければならない。(p95)
引用の前に、戦争の停滞について多くの文字数を使って書いている。
戦争は敵味方が絶えず変化するために不確実な状況は絶対に亡くならない。不確実性は軍人の恐怖を増大させ、決断を鈍らせる。これは人間の性(人間の本質=ヒューマンネイチャー)である。両者が恐怖と不決断の状態に陥れば戦争は停滞して動かなくなる。
指揮官までが同じような状態に陥ってしまえば必敗になってしまうので、常に最善の準備をして置かなければならない。最善の準備というのが絶対戦争に対する準備ということになる。
これに対して政治家はどうすべきか。
政治指導者たるものは、軍人が度を越した行動をとって制限戦争を絶対戦争に拡大させないように十分に注意する必要があるということだ。(p95-96)
引用の前に「ビスマルクがその三〇年後に見つけ出したように」とある。普仏戦争においてモルトケがパリまで占領してしまったことを言っている。不要な軋轢を生まないように、設定した政治目的とその手段としての軍事目的を具体的に提示して守らせなければならない。
引用の後に「しかしクラウゼヴィッツはこの点について考慮していなかった。」考慮してなかったんかい!…クラウゼヴィッツは政治については語らないので、この部分はハワード氏が付け加えた。
防御(第4章)
防御に関する議論において、まず二つの点を挙げることから始めている。第一は防御の目的は消極的であるが、戦争において防御は攻撃よりも強力な戦い方であるという点……第二の点は、防御というのは本質的に敵の攻撃を待ち受けて、さらに反撃する(Abwehr)という二つの段階から構成されるということだ。(p96-97)
防御については敵に自陣を荒らされてしまう危険をまず想像してしまうが、兵隊や物資の補給が簡単で、地理も明るい。あとは敵が攻撃してくるまでに準備(伏兵なども含む)をする時間が確保できる。上のような状況で、敵(攻め手)の方が不確実性が高くなる。「戦場の霧」が濃く深くなるイメージだ。これも防御側の利点となる。
「第二の点」について。
防勢戦略のカギは、攻撃の「待ち受け」と「反撃」という二つの要素の間に適切なバランスを見出すことにある。そして適切な時と場所を選択しながら、クラウゼヴィッツが「防禦の最も光彩を放つとき」と表現した「猛烈な反撃」に転じることから成り立っている。(p97-98)
これの代表例としてハワード氏はロシア戦役(ナポレオンとヒトラー)を挙げている。懐の深いロシアは敵兵を自陣の奥深くまで引きずり込み、兵隊が疲弊して兵站が伸び切ったところを見極める。この時点と「防御側が最大限の力を蓄積した瞬間」が相まって攻守のバランスが逆転した時点を「限界点」と表現する(p98)。限界点を正確に見極められることが戦略家(指揮官?)に求められている。
ただし、ロシア戦役の例は分かりやすいが極端な例だということはハワード氏も書いている(ロシアのように懐の深い他の国は中国くらいだ。そして日本軍はこれをやられた)。
ゲリラ(第4章)
ゲリラについてはクラウゼヴィッツ学会のページから引用。
クラウゼヴィッツはゲリラ戦の原則として、義勇軍や武装した民衆のゲリラ部隊は「敵の主力や大きな軍団に対して決して使用してはならない。その使用の目的は敵の中核を粉砕するのではなく、表面や周辺を侵食することにあり、戦場の側方で敵が戦力をもって侵攻しない地域において活動し、この地域を敵の勢力圏外に置くことにある」と述べている。
つまり、民衆が武装したゲリラの攻撃目標は敵の強力な主力軍ではなく、警戒の手薄な小部隊や後方の補給施設などである。このため、敵はゲリラ活動に対して防護のために多数の部隊を派遣する以外になく、それによって敵の主力軍の攻撃は弱められるのである。