歴史の世界

ヒッタイト新王国① シュッピルリウマ1世まで

新王国時代の初期

  1. トゥドハリヤ1世(前1390年頃?)(以下の4代の王は、血縁関係や在位年代が不明)
  2. アルヌワンダ1世
  3. トゥドハリヤ2世
  4. ハットゥシリ2世
  5. トゥドハリヤ3世(前1360年 - 前1344年)
  6. シュッピルリウマ1世(紀元前1344年 - 紀元前1322年)[以下略]

出典:ヒッタイト - Wikipedia

新王国時代の初代はトゥドハリヤ1世とされる。この王が戦争を繰り返して勢力を拡大したことは分かっているが、詳しいことは分からない *1

しかし、アルヌワンダ1世(先代の娘婿)の治世には今度は各地から攻撃される側になり、勢力は縮小した。トゥドハリヤ2世の治世に首都ハットゥシャまで破壊された。

王国と首都を再建したのはシュッピルリウマ1世だった。新王国の実質的創始者は彼というべきかもしれない *2

シュッピルリウマ1世

シュッピルリウマ1世は先々代のトゥドハリヤ2世の息子で先代のトゥドハリヤ3世の弟。

シュッピルリウマは父兄の下で東方の防衛を担当しサムハ *3 に拠点を置いて、アナトリア東北部の部族カシュカ族やコーカサスを拠点とする部族連合ハヤサ-アズィの侵略を防いで軍功を挙げた。シュッピルリウマは兄王を策謀によって殺害し王位を奪った。

王位に就いたシュッピルリウマは今度は西方のアルザワに対処しなければならなかった。アルザワはエジプトと同盟関係にある国だったが、彼は戦闘と政略結婚の両方を使ってアルザワを攻略した(ただし、この地域全体を併呑したのは後代)。その後、シュッピルリウマは東方のハヤサ-アズィにも政略結婚によって属国にすることに成功した。これにより領土を拡大しながらも安全保障を安定化させることに成功した。

ミタンニ攻略

ミタンニ攻略については以前に記事に書いたが、ここでも書いておく。

シュッピルリウマが王になる前、トゥドハリヤ2世の治世にミタンニの重要都市ハラブ(アレッポ)を破壊、占領した。この当時のミタンニは中東の覇権国家でエジプトとシリア・パレスチナの勢力を争っていたが、ヒッタイトの侵攻により、両者は同盟を結ぶことになった。

シュッピルリウマは、上述のように安全保障上の安定を達成すると、いよいよミタンニ攻略に着手する。ただし、初戦にシュッタルナ2世に撃退され、「ミタンニ包囲網」に方針を転換する。まず、港湾都市として栄えていた港湾都市を従属化し、バビロン第3王朝(カッシート)とは婚姻外交によって同盟を結んだ。

これとは対象的に、ミタンニの方は慢性的に内紛を起こしていて弱体化していた(慢性的な内紛は他の国でも常時起こっていることだが)。

シュッピルリウマはミタンニ王トゥシュラッタの治世にその首都ワシュカンニを攻め落としたが、アルタタマ2世を次代の王とみなして条約を結んだ。ここでミタンニはヒッタイトの属国になったようだ。

その後のミタンニの経緯は以下の通り。

次のシュッタルナ3世がアッシリアと結ぼうとしたため打ち果し、シャッティワザ(マッティワザとも)を擁立し、自分の娘と結婚させてミタンニに影響力を確保した。更にミタンニ領であったハルパ市やカルケミシュ市を攻略し、息子のテレピヌをハルパ王に、別の息子ピヤシリをカルケミシュ王に封じて国内を固めた。

出典:シュッピルリウマ1世 - Wikipedia

ミタンニのかつての領土は西部(北シリア)をヒッタイトが、東部(アッシリア=北メソポタミア)をアッシリアが領有した。

対エジプト政策

ミタンニの領土の半分を領有すると、シュッピルリウマはエジプトと対峙することになる。

ヒッタイトの支配地と接するアムル王国(現在のレバノンあたり)はエジプトの属国であったが、この当時のエジプト王アメンホテプ4世(アクエンアテン)が内政改革でシリア・パレスチナにまで手を出せない状況だったことを好機として王国に圧力をかけて寝返らせた。この後に、シュッピルリウマはアメンホテプ4世にヒッタイト・エジプト間の友好関係維持を希望する文書を送っている *4

両国の関係は一時は戦争をしない関係が維持されたが、ある事件をきっかけに事態が一変する(以下の歴史はヒッタイト側の文書。エジプトにはこの歴史は無いことになっている)。

エジプト王ツタンカーメンが早逝すると正妃アンケセナーメンヒッタイトの文書ではダハムンズ)はシュッピルリウマにその王子を婿に迎えて国王としたいとの手紙を送った。シュッピルリウマはこれに応じて息子のザンナンザをエジプトに送る。しかし当時のエジプトの政治を支配していたアイとホルエムヘブはこの結婚に反対で、どちらかが旅路の途中でザンナンザを殺害した。

シュッピルリウマはこれに激怒し、王子アルヌワンダ2世に命じてエジプト領アムカやカナンを攻撃させ、これを征服した。

シュッピルリウマの最期

対エジプト戦の最中、おそらくエジプト人捕虜の持ち込んだ病原菌が原因でヒッタイト本国でも疫病が発生した。この疫病は大規模であり当時病気治癒を祈る祈祷書が多数作成されたが、疫病は貴族、王族の間にまで広まり、シュッピルリウマ1世は病に倒れ、間もなく病死した。死後、息子のアルヌワンダ2世が即位したが、彼も間もなく同じ疫病によって病死した。そして別の息子ムルシリ2世が即位した。ムルシリが残したシュッピルリウマの年代記のおかげで、このヒッタイト中興の英主の事績を割合詳しく知ることが出来る。

出典:シュッピルリウマ1世 - Wikipedia



*1:トゥドハリヤ1世についてはWikipediaの複数のページで言及されているが、情報が一致しない

*2:シュッピルリウマ1世を新王国の初代とする研究者もいるらしい

*3:場所は確定されていないが、首都ハットゥシャの東方

*4:シュッピルリウマ1世 - Wikipedia