歴史の世界

エジプト第3中間期② 第21王朝/第22王朝 初代シェションク1世まで

この記事では、歴代王の整理の出自がどのようなものであったかという問題がほとんどで、事績などは断片的なものしか書いていない。記録が少ないのだから仕方がない。

第21王朝

スメンデス1世 前1069年 - 前1043年
ネフェルケレス 前1043年 - 前1039年
プスセンネス1世 前1039年 -前991年
アメノフティス 前991年 - 前984
オソルコン 前984年 - 前978年
プシナケス 前978年 - 前959年
プスセンネス2世 前959年 - 前945年

出典:エジプト第21王朝 - Wikipedia(一部改変)

王の系譜は諸説あり、上はその中の一つの説。

この王朝の史料は少ないので分かることは少ない。

スメンデス1世はナイルデルタ東方のタニスの知事であったが、第20王朝最期の王ラメセス11世の娘と結婚することで王位継承権を得たとして、ラメセス11世の死後に王となった。在位中に第20王朝の王都ペル・ラムセスからタニスに遷都した。

形式上ではあるが、アメン大司祭国家(前回の記事参照)は彼らを全土の(上下の)エジプトの王と承認した。そしてスメンデス1世はテーベのカルナック神殿の補修工事をしたという記録がある。

プスセンネス1世は、アメンの大司祭(アメン大司祭国家の長、事実上の王)のパネジェム1世とラムセス11世の娘ヌトタウイの息子。この父母の他の数人の息子は大司祭になっているので、1つの家族がエジプト全土を支配したと言えるだろう。プスセンネス1世の事績としては旧都ペル・ラムセスからを解体して、その資材をタニスの建造その他に使ったことが記録されている。ラメセス2世の巨像やオベリスクがタニスにあったのはそのためだ。

アメノフティスはプスセンネス1世の息子のようだが、その次のオソルコン *1リビア系の人物。彼の家系と王家は姻戚関係を持っていた *2

プシナケスは、一説によればオソルコンの娘婿とのことだが、その次のプスセンネス2世は大司祭パネジェム2世の息子。また大司祭の血縁者が王に返り咲く。

歴代の王の素性や治世についてすら論争があるくらいで、治世についてはほんの少しの断片くらいしか分からない。

第22王朝 (初代シェションク1世まで)

シェションク1世(前945年 - 前922年)
オソルコン1世(前924年 - 前887年)
シェションク2世(前887 - 前885年)
タケロト1世(前885年 - 前872年)
オソルコン2世(前872年 - 前837年)
ハルシエセ(前870年 - 前860年)
シェションク3世(前837年 - 前798年)
シェションク4世 (前798年 - 前785)
パミ(前785年 - 前778年)
シェションク5世(前778年 - 前740年)
ペディバステト2世 (前740 - 前730年)
オソルコン4世(前730年 - 前715年)

出典:エジプト第22王朝 - Wikipedia

この王朝はリビア人王朝として知られる。初代シェションク1世はリビア系の部族メシュウェシュの血を引く人物で、祖父のシェションク(シェションクA)は「マーの首長(メシュウェシュの大首長)」という称号を持つ人物で第21王朝の大オソルコンの父でもある。 シェションク1世 - Wikipedia によれば、彼の家系は「王家と縁戚関係を持つ程に大きな権力を得た名士」の家系だった。大オソルコンとシェションク1世は叔父・甥の関係になる。

シェションク1世自身も「マーの首長」の称号を保持し、さらには将軍(軍最高司令官)でもあった。第22王朝最期の王プスセンネス2世にマアトカーラーという娘がいるのだが、彼女はシェションク1世か次代のオソルコン1世の妻と言われている(どちらかは分からなかった)。

このような背景を基に、彼は王となった。ただしあくまでエジプトの伝統を継承する王であり、リビアの文化を優先させるようなことはしなかった。また、彼の根拠地はナイルデルタ中央の都市ブバスティス(リビア人の入植地)であったが、政治は第21王朝に引き続きタニスで執り、王室はブバスティスに置いた。ブバスティスは当然のことながら財力を投入したので経済的にも盛えた。

シェションク1世については、事績が詳しく遺っているので書いていく。

シェションクは自分の息子イウプトをアメン大司祭を送り込むことに成功した。これはアメン大司祭国家を吸収合併したということ、すなわちエジプト再統一を果たしたということだ。イウプトは上エジプト長官、軍司令官も兼任したが、アメン大司祭国家の組織はそのまま継続させた。

もうひとつの大きな事績として、シリア・パレスチナへの遠征がある。多くの研究者は旧約聖書に登場する「シシャク」と比定している。イスラエル関連については別の記事で書くとして、大きくはシリア・パレスチナの遠征は成功を収めた。このことは、テーベの神殿の記録やメギド(現在のイスラエル北部にあった都市)に証拠となる石碑の断片などによって事実と結論付けられている。ただし、彼の地を支配できたかどうかはよく分からないが、できたとしても長くは続かたかった。

シェションクはこの遠征の後に亡くなった。以上のように彼はエジプトの偉大な王の一人と言うことができる業績を上げている。

*1:第22王朝の2人のオソルコンと区別するために大オソルコン Osorkon the Elder と言われることがある

*2:シェションク1世 - Wikipedia