《ヒッタイト新王国① シュッピルリウマ1世まで》からの続き。
シュッピルリウマ1世(紀元前1344年 - 紀元前1322年)
アルヌワンダ2世(紀元前1322年 - 紀元前1321年)
ムルシリ2世(紀元前1321年 - 紀元前1295年)
ムワタリ2世(紀元前1295年 - 紀元前1272年)
ムルシリ3世(紀元前1272年 - 紀元前1267年)
ハットゥシリ3世(紀元前1267年 - 紀元前1237年)
トゥドハリヤ4世(紀元前1237年 - 紀元前1209年)
アルヌワンダ3世(紀元前1209年 - 紀元前1207年)
シュッピルリウマ2世(紀元前1207年 - 紀元前1178年)
ムルシリ2世
ムルシリ2世はシュッピルリウマ1世の息子。
シュッピルリウマの晩年にヒッタイトでは疫病が流行し、シュッピルリウマ自身もその中で亡くなり、それを次ぐアルヌワンダ2世(ムルシリ2世の兄)も治世わずか2年で亡くなる。ムルシリ2世自身は、疫病に負けずに26年の治世を全うする。
疫病で弱ったところで隣国から戦争を仕掛けられた。北方のカシュカ族、東方のアッジ(ハヤサ)、西方のアルザワ国、南東のアッシリアなどだ。ムルシリ2世はこれらを7年を費やして撃退した *1。彼もまた、シュッピルリウマ1世が行なったように、戦闘と外交によって国をよく守った。
在位12年、オリエント世界の覇権国家であるエジプトと条約を結ぶ。かつてエジプトの属国であったシリアのアムル王国をヒッタイトの勢力圏であることを認めさせた条約だ(当時のエジプト王はホルエムヘブ)。
これ以降の治世の記録は発見されていないが、次代の王に代替わりするまで大きな事件はなかったようだ。
ムワタリ2世とカデシュの戦い
- ヒッタイトの領土(本土)が赤、勢力圏が橙。黄緑はエジプトの領土+勢力圏。前1300年頃。
ムルシリ2世の次代がムワタリ2世。ムワタリ2世はカデシュの戦い(前1274年頃)で有名。カデシュの戦いは歴代のエジプト王屈指の英雄ラムセス2世との戦いで、ラムセス2世が残した記録によればエジプト軍側の圧勝なのだが、実際のところ戦後の状況を考えれば引き分けだ。つまり現状維持。
カデシュの戦いはヒッタイトに従属していた小国カデシュ王国が離反したことから始まった。シリアの小国は長年に渡って(ヒッタイト新王国勃興よりも前から)従属と離反を繰り返す不安定な場所だった。
ムワタリ2世はシリアの反乱を抑制するため首都を南方のタルフンタッサへ遷都した(場所は分かっていないらしい)。
その他、ムワタリ2世については周辺勢力との戦いの記録が遺されている。
ムルシリ3世、ハットゥシリ3世
ムルシリ3世、ハットゥシリ3世は前王ムワタリ2世の息子。ムルシリ3世が兄だが庶子という関係。ハットゥシリ3世が遺した記録によれば、ムルシリ3世治世の7年か8年にハットゥシリ3世が王位を簒奪した。
ムルシリ3世は首都をハットゥシャに戻したとされる。
ハットゥシリ3世治世はアッシリアの勢力拡大期であり、これを警戒してエジプト王ラムセス2世と平和条約を結んだ(前1259年)。エジプトとはシリアにおける勢力圏争いがあり、これに加えてムルシリ3世のエジプト亡命もあり、緊張関係が続いていたが、交渉の末に不戦条約が結ばれ、ハットゥシリ3世はエジプト王に娘を嫁がせた。
トゥドハリヤ4世
この王も歴代王のように四方の敵と戦い続けたが、苦戦のほうが多かったようだ。西部ではアヒヤワに侵略されて領土を失い、東部ではアッシリアに負けて威信が衰えた。ただし、強盛だったアッシリアは、トゥドハリヤ4世に勝利したトゥクルティ・ニヌルタ1世治世に内部対立が起こって、それから長いあいだ勢力は低迷した(アッシリアの滅亡とは関係していない)。
一方、建築・宗教関係の記録が遺っており、一定の威厳が保たれていたことが分かっている。
アルヌワンダ3世、シュッピルリウマ2世とヒッタイト滅亡
この2人はトゥドハリヤ4世の息子。
アルヌワンダ3世がトゥドハリヤ4世の跡を継いだが、治世1年(もしくは2年)の首都ハットゥシャの住民の反乱の中で死んだらしい。
次代シュッピルリウマ2世はヒッタイト帝国最後の王。
父王と同じく建築・宗教に熱心だった一方で、国全体があらゆる危機に覆われた。
首都ハットゥシャから発見された治世初期の記録では、周辺勢力の戦いにおける勝利と旧都タルフンタッシャの反乱の鎮圧が遺っているが、ウガリットやエジプトの記録によると飢饉による重大な食糧不足が起こったという(エジプト王メルエンプタハに食糧援助を頼んでいる)。
紀元前1194年から1190年の間にそのウガリットは破壊された。またその直前にキプロスも失われている。キプロスの支配者はウガリットの若き王ハンムラピ2世に対し、迫る攻撃を警告する文書を送っていた。その警告も無駄になった。なぜならシュッピルリウマの勅命で、ウガリットを守るべきその艦隊がアナトリア南岸での軍事行動に投入されたためである。またウガリットの歩兵も、ルッカ(南西アナトリアのリュキア地方か)で厳しい戦いを行っていたシュッピルリウマの命により、ヒッタイト本国に移動させられていたのである。これらを記した文書はすべてウガリット市内の窯の中から発見されている。つまり焼き固めが未完成なまま、ウガリット市の滅亡を迎えたことを示している。これらの記録は、ヒッタイト帝国がシリア、キプロス、そしておそらくキリキア地方さえ失い、シュッピルリウマが多正面戦争を強いられていたことを示している。以前は陸軍派遣の軍役を免除されていたウガリットの陸軍がハットゥシャに送られたということは、事態が急であったことを如実に示している。
その後シュッピルリウマがどのくらい王位にあったのか、また帝国がどのように滅亡したかについての明確な史料はない。おそらく数年後に主要な都市はほとんど破壊されるか放棄されたとみられる。従来ハットゥシャでも「大火災があった」と言われていたが、実際に遺跡を検分すると、火災の範囲は王宮などごく狭い範囲に限られており、「下の町」にある住居地区などに火災の痕跡は見られない。このため発掘を担当する考古学者は、ハットゥシャが敵による攻撃で大炎上して陥落したという従来の説明に疑問を呈しており、住民が自発的に放棄して町を去ったと考えるほうが自然であるという。このことから、外敵の侵入よりもむしろ内乱や住民の蜂起が帝国滅亡の直接の原因であるとする説が強くなってきている。
ヒッタイトは海の民に滅ぼされたと言われているが、確実な証拠は無い。ただし上記のような軍事上の窮状は海の民の各地の侵略が原因だろう。
海の民はエジプトとの対決(デルタの戦い、前1175年 )の後、雲散霧消してしまった。
王都周辺は長年の敵だったカスカ族が占拠した(カスカ族がとどめを刺したのかもしれない)が、王族が支配していた他都市タルフンタッシャやカルケミシュはその後も存続した。しかしこれらがヒッタイト帝国を復興することはなかった。
以上の文章はwikipediaの諸ページを参考にした。