前回からの続き。
ツタンカーメンの即位
前1350 - 1334年頃 アメンヘテプ4世(Amenhotep IV)
前1336 - 1334年頃 スメンクカラー(Smenkhkare)
前1334 - 1325年頃 ツタンカーメン(Tutankhamun)
アクエンアテン(アメンヘテプ4世)の下のスメンクカラーはアクエンアテンの晩年に共治王となったが、わずか3年で死んでしまった。アクエンアテンもその死の直前に死ぬ。
幼い王の代わりにエジプトを統治したのが宰相アイと将軍ホルエムヘブだ。
アメン神信仰の復活
即位4年にアマルナ革命をやめることを決定する。これについて最も重要な点は、アテン神信仰をやめてアメン神信仰を復活させることだった。
ツタンカーメンと言う名前はより正確に綴ると「トゥト・アンク・アメン」(「アメン神の生ける似姿」の意)となる。しかし彼の即位時は「トゥト・アンク・アテン」だった。即位の後にアマルナ革命をやめてアメン神信仰を復活させて、その象徴の一つとして名前を変えて「改宗」したということだ。
しかし、アイとホルエムヘブの2人はアメン神官団をアクエンアテンより前の状態に完全に戻すということではなく、自分たちの都合の良いように「復活」させたということに注意しなければならない。
まず、アマルナ革命時代(アマルナ時代)の首都であったアケトアテン(現代名:テル・エル・アマルナ)からメンフィスに遷都する。かつてのテーベではない。次に、アメン神信仰の本拠地であるアメン神殿はテーベに再建され、アメン大司祭はアイが兼任した。これらのことから2人がアメン神官団の絶大な権力の復活を望まなかったことが見て取れる。
彼らのアメン神信仰の復活は、それ自体が目的ではなく、国内の分断を終わらせて、エネルギー(リソース)を外征に向けることだった。
アジア遠征の復活
ホルエムヘブは将軍(軍トップ)だが、宰相アイもまた軍経験者であった。アジア遠征の復活は2人の共通する問題だった。
将軍ホルエムヘブは王即位後すぐにアジア遠征に向かい、ウピ州とカナン州の秩序を回復した *2。
ウピ州・カナン州とはトトメス3世の治世で植民地化した地域の3州のうちの2つだが、もう一つのアムル州(アムル王国)はアクエンアテンの治世にヒッタイトに寝返った。このことが彼らの共通した危機感であった。
なぜツタンカーメンは有名なのか
ツタンカーメンは実験を握ることなく若くして死んでしまった。しかし古代エジプトにおいて、最も有名なファラオ(王)である。その理由は王墓にある。
王家の谷にあるツタンカーメン王の墓は、1922年11月4日にイギリスのカーナヴォン卿の支援を受けた考古学者ハワード・カーターにより発見、発掘された。ツタンカーメンは王墓としては極めて珍しいことに、3000年以上の歴史を経てほとんど盗掘を受けず、王のミイラにかぶせられた黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品がほぼ完全な形で出土した。[中略]
ツタンカーメンのミイラと、黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品はエジプトに残された。そして、黄金のマスクや純金製の第3人型棺をはじめとする副葬品の大半は、現在はカイロにあるエジプト考古学博物館に収蔵されて観光客に公開されている。
ツタンカーメンの黄金のマスク
ツタンカーメンの墓
今からおよそ100年前に発見されたこの墓は当時より「世紀の大発見」としてもてはやされ、日本でも現在までに何度も「ツタンカーメン展」と呼ばれるようなものが開催されて注目を集めている。だから多くの日本人は、古代エジプトと言えばツタンカーメンの黄金のマスクを思い浮かべるくらいになっている。
ではどうしてツタンカーメンの王墓は盗掘の被害が微少で済んでいたのかというと、それはこの墓が盗賊たちに王墓としてみなされなかったからだということだ。
この墓は王のものとしては余りに小さく、老臣アイの長年のめざましい忠勤にたいし王が恩賞として許していた墓であった公算がつよい。他にも王家の谷に埋葬される同様の特権を得た高官の例がある。王の死が突然であり、またアイの墓は出来上がっていたこともあって、これが転用され、ただちに玄室に装飾を施す作業が始まった。
ツタンカーメンのために用意されていた墓は後の王となったアイの墓となった、と考えられている。