「海の民」は、ヒッタイトや、ミケーネ諸王国、シリア・パレスチナ諸国を崩壊させ、エジプトと大規模な戦争をした驚異の集団として今に伝えられている。
ただし、彼らは非文明人であり、記録を遺しておらず、上記の地域でもエジプト以外の記録は見当たらないかほとんど遺っていないので、エジプトが遺した記録でしか分からない。ただし、エジプトの記録はファラオの戦勝の自賛の記録なので、「海の民」についての調査記録は無い。
結局、詳しい記録は一切無いということだ。考古学的な物的証拠からいろいろ推測されているが、研究者の一致しない部分は多い。
エジプトに遺る記録
まず、「海の民」は特定の民族を指す個体名ではなく、近代になって名付けられた総称である。
現在、「海の民」と考えられている民族の一部はエジプトの記録に遺っている。その代表例が、メルエンプタハ王(前1212 - 1202年頃、第19王朝)とラメセス3世(前1182 - 1151年頃、第20王朝)が遺した記録だ。
メルエンプタハの記録
メルエンプタハの記録には5つの民族が挙げられている。以下引用。
- アカイワシャ人 - ホメロスの伝えるところのアカイア人、すなわちミケーネ文明の担い手であったギリシア人
- トゥルシア人 - エトルリア人
- ルッカ人 - 小アジア南西部のリュキア人
- シェルデン人 - サルデーニャ人
- シェケレシュ人(Shekelesh) - シチリア人
なお、アカイアは紀元前15世紀から紀元前13世紀ごろにはオリエント世界ではアヒヤワとして知られた勢力で、ルッカ人やシェルデン人は海の民出現に先立つ紀元前1286年にはヒッタイトとエジプトが戦ったカデシュの戦いにおいて両陣営の傭兵として活動していたことが記録されている。また、紀元前14世紀中葉のアマルナ書簡でルッカ人の海賊、シェルデン人の王について言及したものが知られる。
つまり、海の民として連合してエジプトなどを侵攻した海上勢力は目新しいものであったが、その個々の構成要素となる集団は、それ以前から地中海世界或いはオリエント世界では知られていた存在であった。[後略]
メルエンプタハの記録は彼の戦勝を自賛するもので、リビア人が主要の敵であり、「海の民」はこれに従う同盟者であった。
エジプトの記録ではメルエンプタハ以前にアクエンアテン王やラメセス2世の頃にも「海の民」の一部とされる人々の記録されているが、彼らは移住民か傭兵として名を挙げられただけで、この頃の彼らの力の総量は微々たるものだった。 *1
ラメセス3世の記録
メルエンプタハとの戦いの約20年後の戦争では、「海の民」は強力な主敵だった。この戦いについては前回の記事で書いた。
ラメセス3世の記録に出てくる民族名は以下の通り(カッコ内は推測)。
これら以外に複数の民族がいたと思われる。さらに破壊された都市の民が加わり膨れ上がった。余談だが、現在の世界中のテロ組織では親を殺害された子どもたちが兵隊にさせられるそうだ。
さて、デルタの戦い(「海の民」vs ラメセス3世。前1175年頃)までの「海の民」の進撃は以下の通り。
上図の"invasions" には武力を伴わない集団的移住も含まれるだろう。これらの"invasions" の原因については研究者の一致は無いが気候変動や火山噴火のような天災が挙げられている。個人的には人口増加の人災も考えてもらいたいところだ。もうひとつ、海賊や遊牧民の存在もあっただろうが解明できないものか *3 。
結局、「海の民」はラメセス3世の戦いで壊滅した。「海の民」のその後の(文字としての)記録は無い。
「海の民」の一部だったペリシテ人
「海の民」はおそらく、捕まった者は捕虜として奴隷や傭兵になったりエジプトの国境付近で定住を許されたのだろう。詳しくはわからないが。
彼らの中で注目されるのがペレセト人(のちのペリシテ人)だ。ペリシテ人(の祖先)は「海の民」が壊滅した都市アシュケロン(現在のエルサレムの西南に位置する)に定住した。
以下は興味深いニュース。
マックス・プランク研究所の研究者らは、ペリシテ人の町として知られていたアシュケロンで発見された10人の化石のDNAを調査した。[中略]
調査の結果、10人のDNAは、紀元前12世紀ごろにヨーロッパからアシュケロンに人々が押し寄せたことを示していた。
そうした個体のDNAが最も大きな類似点を持っていたのが、古代にクレタ島で暮らしていた人々だ。しかし、サンプルの数が少なすぎるため、彼らのホームランドがクレタ島であると特定できたわけではないとのこと。
また、アシュケロンで発見された紀元前10~9世紀の化石のDNAにはヨーロッパからの移民の痕跡はほとんどなかった。これはペリシテ人が現地の人と結婚し、遺伝子が希釈されたことを示している。