歴史の世界

古アッシリア時代③ ヒッタイト古王国

今回はアナトリア半島ヒッタイトについて。

今回はヒッタイトの先史からヒッタイト古王国までを書く。

まずはアナトリア半島の地理から話を始める。

アナトリア半島の地理

アナトリア半島は、現在トルコ(共和国)の領土になっている地域。

地理は以下の通り。

アナトリア半島は中央に広大な高原と海沿いの狭小な平地からなり、高原の東部はチグリス川・ユーフラテス川の源流である。[中略]

中近東という位置や地中海やエーゲ海からくる印象から、一般に温暖な印象であるが、沿岸地域を除くと冬は寒冷な国である。エーゲ海や地中海の沿岸地方は温暖で、ケッペンの気候区分では地中海性気候に属し、夏は乾燥していて暑く、冬は温暖な気候で保養地となっている。

f:id:rekisi2100:20210329001134j:plain

出典:トルコ - Wikipedia

アナトリアの先住民「ハッティ人」

ヒッタイト人がアナトリアに建国する前に、中央部にはハッティと呼ばれる人々が住んでいた(言語系統不明)。

ただしハッティ人についてはよく分かっていないようだ。

ハッティ人 - Wikipedia」ではアッカドサルゴンの時代(紀元前2350年 - 紀元前2150年ころ)に言及されていると書いているが、「Hattians - Wikipedia」によると、これは「King of Battle」という叙事詩の中の話なので、事実とは断定できないとのこと。

トレヴァー・ブライス(英語版)は、次のように記している。

いわゆる「ハッティ人」の文明の証拠は、後年のヒッタイト語の古文書の中に見出される、インド・ヨーロッパ語族の言葉ではない、ある言語の断片によってもたらされる。この言語は「hattili」、すなわち「ハッティの言語」と称されている。伝えられている数少ないテキストは、宗教的、ないしカルト的な性格の内容である。これらのテキストは、多数のハッティの神々の名や、人名、地名を伝えている *1

出典:ハッティ人 - Wikipedia

ハッティ人はいくつかの都市国家に分立しており、その中の一つカニシュにはアッシリア商人の拠点(カールム)が在ったという話は以前にした。当時のアナトリアでは金や銀が産出した。

ヒッタイトの先史時代

↓の「キュル・テペ文書」とは、かつてカニシュがあった遺跡キュル・テペで見つかった文書のこと。

カニシュのカールムは前1740年に火災があって、アッシュル商人の交易活動はおしまいになった。その理由はアナトリア情勢の変化と考えられる。

というのは、「キュル・テペ文書」のなかに、インド・ヨーロッパ語と思える名前がわずかだが記されていて、ヒッタイト語の単語らしきものもあるからである。つまり、ヒッタイト人が前19-18世紀のカニシュにすでにあらわれていたことを意味している。ヒッタイト語を、ヒッタイト自身は「ネシャ語」といった。ネシャとはカニシュのことで、カニシュはヒッタイト人がアナトリアへ進出した際に、重要な拠点だったようだ。

出典:小林登志子/古代メソポタミア全史/中公新書/2020/p96-97

ヒッタイトの最古の歴史は「アニッタ文書」に求められる。この文書はハットゥシャの遺跡から出土した粘土板で、前16世紀の古期ヒッタイト語で書かれており、おそらく後世のハットゥシリ 1 世が筆写させたものとされている。 *2

これによると、最古のヒッタイト人の王はクシャラ市(場所は不明、アナトリアのどこか)のピトハナという王だった。クシャラ王ピトハナはカニシュを攻略した。上の小林氏はこの攻略と火災を関連付けているわけだ。

ただし、ピトハナ王が「前1740年の火災」の直接の原因だという確証はなく、ピトハナ王の前に別のヒッタイト人が侵略して「重要な拠点」としたのかもしれない。そしてこれをピトハナ王が倒したのかもしれない。

ピトハナの子がアニッタ。アニッタはアナトリア中央部と黒海方面の有力な諸都市を支配下に置いてアナトリアの覇権を握った *3

ヒッタイト古王国の建国

そして「ヒッタイト(古)王国」を建国するのはハットゥシリ1世(前1620-1590年頃) *4。 なのだが、アニッタ王とハットゥシリ1世の関係については分かっていない。

ハットゥシリ1世は、当初「クシャラの人」 *5 「ラバルナ」という称号を名乗っていたが、首都をカニシュからハットゥシャに遷してからハットゥシリ(1世)を名乗るようになったという。ハットゥシャはこれ以降ヒッタイトの首都であり続けた。

17世紀後半に、ハットゥシリがヤムハド(シリアの覇権国)に攻め込んだことは前回書いた。ハットゥシリはヤムハドの首都ハラブ(アレッポ)を攻撃するほどの勢いを見せたが、陥落させるまでには至らなかった。

次代のムルシリ1世(前1620-1590年頃、ハットゥシリの孫)は前1600年にハラブを落とし、前1595年にバビロンを落とした。

しかし、帰還してすぐに暗殺され、ヒッタイトは混乱期に入る。

古王国の終焉

この後、ヒッタイトは弱小期に入り文献記録も途絶え、傑出した君主もなく、その支配領域も縮小した。強い王の下での拡張と、弱い王の下での縮小というこのパターンがヒッタイト王国の500年の歴史を通じて何度も何度も繰り返された。このため衰弱期の事象の歴史を正確に組み立てる事は難しい。この頃のヒッタイト古王国の政情不安定の一因は、その頃のヒッタイトの王権のあり方により説明できる。紀元前1400年以前のヒッタイト古王国では、ヒッタイト王はヒッタイト市民からエジプトのファラオのような「生き神様」と見なされていたのではなく、むしろ平等市民の中の第一位の者と見なされていた。

出典:ヒッタイトの歴史 - Wikipedia

古王国最後の王はテリピヌ(前1500年頃)という。彼はテリピヌ勅令を発して、王位継承の原則を定めた。

[王位継承は]第一王子が王位を継ぐこと、第一王子がいなければ第二王子が、もし王子がいなければ第一王女の婿が王位を継ぐこと定めた。

出典:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 *6p350(渡辺和子氏の執筆部分)

テリピヌは娘婿のアルワムナに王位を継承したようだが、アルワムナはタフルワイリという人物に王位を簒奪されて、再び史料の乏しい時代が続くようになる(これ以降の時代は70年ほど続くがこの時代を中王国時代という)。



*1:Bryce, Trevor (2005). The Kingdom of the Hittites (New Edition ed.). Oxford University Press. pp. 554. ISBN 9780199279081 2017年12月1日閲覧。 pp.12-13

*2:世界の文字

*3:小林氏/p97

*4:年代については諸説ある

*5:クシャラ市は先史時代の首都という意味で重要な場所だった

*6:1998年出版されたものの文庫化