記事のタイトルの通り。
第二次ラッセル伯爵内閣
パーマストン首相が急死した直後は、外相だったラッセル伯爵が首相になった。
パーマストンがいなくなった途端に選挙法改正に着手した。ラッセル伯爵は貴族院ということもあり、主導したのはグラッドストン(庶民院)だ。
そして法案は廃案になった。1865年10月に発足した内閣は1866年6月に総辞職した。以下は簡潔なあらまし。
1830~40年代の労働者階級による選挙権要求の運動であったチャーティスト運動に対しては、上院・下院とも議会はかたくなに拒否していたが、50~60年代には保守党と自由党はともに労働者階級に一定の歯止めを設けた上で選挙権を与える必要があると考えるようになっていた。その背景には、ヴィクトリア朝の繁栄として明確に見られるイギリス資本主義の成長のもとで、労働者階級でも熟練工は一定の収入を得て安定し、社会変革を望ます体制的になっていたことがあげられる。権力をにぎったブルジョワジーはこのような労働者階級の上層を体制に組み込むことで支配の安定をはかる必要があった。問題は、労働者階級の上層とそうでない層をどこで区切るか、だった。
背景と経緯 まず、1866年に自由党のラッセル内閣のグラッドストンは、従来の都市選挙資格の10ポンド戸主を、7ポンドに切り下げる提案をした。しかし7ポンドを上層として区別するには無理があり、同党内の保守派の反対で否決され、内閣は総辞職していた。
・第1回選挙法改正(1832年)の下での有権者は成人男性(21歳以上)の約17~20%、人口全体(女性・子供含む)で 約6~7%(AI調べ)。
・廃案になった原因は、自由党内部のパーマストンに近かった人たち(の中核)がこれに反対して内部分裂してしまったせいだ。
第三次ダービー伯爵内閣と第2回選挙法改正成立
1866年6月にダービー伯爵に大命が下った。第三次ダービー伯爵内閣が成立。ダービー伯爵は貴族院のため、ディズレーリ(庶民院)が選挙法改正を主導した。
ディズレーリは、翌1867年、おもいきって財産資格を撤廃し、都市労働者階級の選挙資格として戸主選挙権(ただし地方税の納入を条件とする)を提案し、一気に解決を図った。[中略]
結果と問題点 この改正は飛躍的な選挙権の拡大となり、都市の労働者の殆どが有権者となり、中流以下の商工業者も選挙権を得た。イギリス連合王国の有権者は、1867年の135万人から、247万人に、つまり一気に約110万人以上増加した。
この改正以降、自由・保守両党は、議会外での有権者の組織化を進め、近代的な政党へと脱皮していった。(出典:同上)
・第2回選挙法改正(1867年)の下での有権者は成人男性(21歳以上)の約33~35%、人口全体(女性・子供含む)で 約11~12%(AI調べ)。
第一次ディズレーリ内閣
1866年6月に誕生した第三次ダービー伯爵内閣はダービー伯爵の持病が悪化したため1868年2月に総辞職。ディズレーリに大命が下り、第一次ディズレーリ内閣が誕生した。
しかし、「就任後1年以内に総選挙を行う」という慣習があって、同年に選挙することになった。ちなみにダービー伯爵が就任後1年以上選挙をやらなかったのは「選挙法改正という大事業を途中で投げ出すわけにはいかない」という大義名分があったため。それでも批判はされていた。
新選挙法の選挙でディズレーリ保守党は敗北した。理由は「保守党の特権階級政党イメージがあった」「新有権者(特に都市の熟練労働者・下層中産階級)がグラッドストン自由党に投票した」。当初から「ディズレーリが自分で自分の首を絞めた」と言われていた。全くその通りだが、現代の観点から言えば「ディズレーリは民主政治の発展に貢献した」といったところだろう。(敗北した理由は他にもあるが省略)
この結果を受けてディズレーリは新議会招集の前に総辞職した。これは総選挙の敗北を直接の原因として首相が辞任した最初の事例であり、以降イギリス政治において慣例化する。これ以前は総選挙で敗北しても議会内で内閣不信任決議がなされるか、あるいは内閣信任決議相当の法案が否決されるかしない限り、首相が辞職することはなかった。
都市の熟練労働者というのは労働階級の上層くらいのイメージでいい。下層労働者は農民はまだ選挙権を得られなかった。
有権者がおおむね2倍になったと言われていて、新有権者=特に都市の熟練労働者・下層中産階級 ということなので大衆政治(政治の大衆化)が始まった、ということになる。
第一次グラッドストン内閣発足
ディズレーリ総辞職に伴い、自由党党首グラッドストンに大命が下った。安定多数の政権としてスタートした。
この政権でやったことについては次回以降。
政党政治の変化
第二回選挙法改正の後の変化。
政党の変化
- 「上流階級の有望家だけの政治」から大衆政治が始まった。
- 各選挙区で政党組織が設けられ、党員という仕組みを作り、集会を開くようになった。
- 現代の民主主義につながる党議拘束強化・議会手続などの慣習が出来上がった。
- 大衆に選ばれた庶民院のトップが首相候補となった(よっぽどのことがないと貴族院からは選ばれない)。
議会の仕組みの変化
- 総選挙の結果に基づく政権交代という現代的な慣習が確立。
- 首相は一般に庶民院の多数党の指導者が務めるという慣習が強化された。
- 庶民院の優位の強化(大衆政治の影響で貴族院の否決権の行使を自制する慣習が定着した)。
- 貴族院の役割は庶民院(下院)の決定を尊重しつつ法案を精査・修正する機関となる(国民の意思を反映する役割は庶民院が担うことになったから)
貴族院が自制にしないと庶民院の選挙で負けてしまうので、貴族院の役割が縮小した。ちなみに貴族院の選出の仕組みは貴族・聖職者たちが彼らの仲間から選出する(選挙みたいなものがあったらしい)。この仕組みは以前と変化はない。