前回からの続き。
シリアの強国アラム・ダマスコ
シリア諸国を圧迫し続けたシャルマネセル3世(前858年 - 前824年)が亡くなると、その後 王位継承などの混乱が続き、アッシリアは約80年に及ぶ停滞期に入る。
このような状況でシリアの覇権を握った国はアラム・ダマスコ(ダマスカス)だった。
紀元前830年代のレバント地方の勢力図
アラム・ダマスコ国は前回に触れたカルカルの戦いにおいて、シリア連合軍の最大の勢力として筆頭に挙げられていた。この時の王はハダドエゼルで、この名前は聖書にも出てくる(ただし聖書ではダビデと同時代の人として出てくるのでズレがある)。
聖書によれば、ハダドエゼルの次代がハザエル(王位継承者ではなかったらしい)で、この王はアッシリアの攻撃を撃退したとのこと。
聖書と史実関係を照らし合わせると、シャルマネセルの死後にハザエルが勢力を拡大し、イスラエル王国とユダ王国を属国にしてしまったらしい。この時代にあたる北イスラエルの多くの遺跡には破壊の痕跡がみつかっており、多くの学者がこのことを関連付けている *1。
さらに証拠として文字史料もある。前々回にダビデの実在性について言及したテル・ダン碑文だ。
ユダ王国に対する聖書外の初めての言及
ハザエルはテル・ダン碑文を書かせた人物だ。
〔私は〕数〔千両の戦〕車と数千騎の騎兵をつないだ〔強力〕な王〔た〕ちを殺した。〔私は〕イスラエルの王〔アハブ〕の子〔ヨ〕ラムとダビデの家の〔王ラム〕の息子〔アハズ〕ヤフを殺した。
テキストは断片的だが、大半の研究者がこの部分の文章を妥当なものと考えている。[中略]
ダン碑文は、ヨラムとアハズヤを「殺した」のは、「私」であるハザエルだ、と述べていることになる。
出典:長谷川氏/p171
ここでの「ダビデの家」とはユダ王国を指す(「イスラエル」は北イスラエル王国)。
ハザエルは戦争によって両国の王を殺したと記録されている。ただし、その後も両国は存続している。
ちなみに、ハザエルはペリシテの1都市まで攻め込んだことが聖書にあるが、これと関連付けられる遺跡があるらしい *2。
前800年ころ
前800年ころのシリアの状況を表す碑文がある。ハマト王国の王ザクルが書かせたものだ。ハマト王国はカルカルの戦いで2番目に兵力を出した国だ。
Luwian and Aramean states (c. 800 BCE)
碑文によれば、ザクルはダマスコのバル・ハダド率いる新連合軍によって包囲されたが、「バアル・シャマイン」という神の加護により、包囲軍は奇跡的に去っていった。
出典:長谷川氏/p167
バル・ハダドは聖書のベン・ハダドに同定される。彼はハザエルの次代の王だ。「バル」はアラム語で「息子」を意味し、これに対応するヘブライ語が「ベン」。神の加護と書いてあるが、実際は賠償金を払って戦争を終わらせたのかもしれない*3。
シリアの覇権を受け継いだバル・ハダドだったが、アッシリア王アダド・ネラリ3世(前810年 - 前783年、シャルマネセル3世の2世代後)に攻め込まれて降伏した。このことはアダド・ネラリが遺した碑文による。
この碑文には北イスラエル王国のヨアシュ王(サマリア人ヨアシュ)が朝貢したことも書かれている。
そして聖書にはヨアシュがダマスコに奪い取られた町々を取り戻したことが書いてある。
アダド・ネラリ3世によって復活したかに見えたアッシリアだが、彼の死後再び停滞した。