ヒッタイトの歴史は3分割され、それぞれ古王国・中王国・新王国となっている。中王国は混乱期のため、ほとんど言及されないが、Wikipedia(日本語版or英語版)に諸王のページがあるのでこれを使って中王国を書いてみる。
ちなみに、この歴史は中東またはオリエント世界の古代史としては重要度は低い。
中王国時代の前については以前に記事にした。
諸王の系譜
正確な数字ではないが、古王国の最後の王テリピヌの最期が前1500年前後、新王国の初代王トゥドハリヤ1世の最初が前15世紀後半(前1430年頃?)で、中王国時代は約70年となる。
この時代はヒッタイトの混乱期とされる。
- タフルワイリ
- アルワムナ
- ハンティリ2世
- ツィダンタ2世
- フッツィヤ2世
- ムワタリ1世
- (新王国)トゥドハリヤ1世
タフルワイリはおそらく大王テリピヌの死後王位に就いた。テリピヌ自身は後継者に義理の息子アルワムナを指名しており、タフルワイリがアルワムナから王位を簒奪したか、王位を奪ったタフルワイリからアルワムナが正当な王位を奪還したかのいずれかであると考えられる。[中略]
タフルワイリの治世を示す資料は、今のところその銘のある印影がある粘土板文書一枚のみであり、のちの王名表にも名前は出ていない。おそらく簒奪者ということで後世の王に存在を抹殺されたのであろう。その治世の唯一の事績として、キズワトナ(英語版)の王エヘヤとの条約が伝わるのみである。
ただし「Tahurwaili - Wikipedia」 によれば、アルワムナは嫁と一緒にテリピヌによって追放されたとあり、タフルワイリがテリピヌに指名された(つまり正当に王位に就いた)可能性もある。
タフルワイリの後はアルワムナが王になりその次が彼の息子ハンティリ(2世)が継ぐことを考えれば、アルワムナがタフルワイリから王位を奪った後、王名表に名を遺さなかったと考えるのが自然だろう。ちなみにアルワムナ自身の出自が王族かどうかは分からない。
4代目となるツィダンタ2世は 「ツィダンタ2世 - Wikipedia」 では先代の息子とあるが、確実ではないらしい。
5代目フッツィヤ2世の出自は不明。この王は護衛隊長により殺害された (フッツィヤ2世 - Wikipedia )。
この護衛隊長がムワタリ1世として王になる(出自不明)。この王はフッツィヤの二人の息子に殺害される。
トゥドハリヤ1世(前1430年頃~。出自不明)はムワタリ1世の後を継ぐが、新王国の初代王とされる。
東南の隣国キズワトナとの同盟
出典:Kizzuwatna – Wikipedia(ドイツ語版)
キズワトナはアナトリアの東南の地中海に近い高地に位置する(領域国家)。古王国時代の末期(後期?)より、ヒッタイトとキズワトナは「parity treaty(平等な条約)」を結んだ。
前15世紀の中東の覇権はシリアのミタンニが握っていて、ヒッタイトはミタンニの侵攻を防ぐためにキズワトナを緩衝地帯と考えていた。
ヒッタイトの歴代の王がこの条約の更新の文書を遺している。
ツィダンタ2世もキズワトナ王ピリヤ(Pilliya)と条約を交わしたが、ピリヤはその後にアララク王イドリミと条約を交わす(上図のAlalha)。アララクはミタンニの属国なのでキズワトナはミタンニの勢力圏に入ったことになる。
東北の「蛮族」カシュカ族
カシュカ族(Kaska)はアナトリア東北部にいた結束の緩い部族だ。
史料として出てきた最初はヒッタイト古王国のハンティリ1世(前1590-1560年)の治世で、聖なる都市ネリク(Nerikka)を襲われて奪われた。
中王国時代のヒッタイトの歴代王はカシュカ族と攻防を繰り広げたが、ネリクを奪還することはできなかった(奪還したのは新王国時代のムワタリ2世(前1315-1282年頃)の治世)。
西方について
中王国時代の西方についてはよく分からない。
末期(前15世紀後期)にアルザワ(Arzawa)という国が出来たらしく、新王国初代トゥドハリヤ1世と戦ったという記録があるくらいしか見当たらなかった。