歴史の世界

中バビロニア カッシート王朝(バビロン第3王朝)/イシン第2王朝(バビロン第4王朝)

中アッシリア》と同時期のバビロニア(南メソポタミア)の時代。

古バビロニア時代③ バビロン第一王朝/古バビロニア時代の社会》の続き。

バビロン第一王朝が前1595年にヒッタイト王ムルシリ1世に滅ぼされる。ただしこの王朝は滅亡より前にハンムラビ王(在位:前1792年頃-前1750年頃)の死後より衰退が始まっており、前1732年頃にはすでに南部は海の国第1王朝が興っていた(この王朝はバビロン第二王朝とも呼ばれる)。「海の国」についてはほとんど記録が残っていないことは前述の記事で書いた。バビロン第一王朝が倒れた後もバビロニアは統一されなかった(ヒッタイトも海の国もできなかった)。

統一を果たしたのはカッシート王朝と呼ばれる王朝で、ここから中(期)バビロニア時代が始まる。

カッシート人

カッシート人について詳細なことはわかっていない。メソポタミア東部のザクロス山脈を越えてイラン方面から来たとされているが、本来話していたはずの言語系統も分からない(彼らが記録を残す時には既にアッカド語やシュメール語を使用していた)。

カッシート人の最初の記録は前18世紀頃のバビロン第1王朝時代にまで遡ることができる。「傭兵や農業労働者として記録されている他、カッシート人との戦闘の記録が残されている」 (カッシート人 - Wikipedia )。

しかし彼らがどのような経緯でバビロニアの実権を握ることになったのかは分かっていない。

カッシート王朝

カッシート人が興した王国をカッシート王朝と呼ぶ。バビロン第3王朝と呼ぶこともある。

カッシート王朝の始まりは確実な記録は遺っていない。

アグム2世(? - 前1570頃)
ブルナ・ブリアシュ1世)
カシュティリアシュ3世
ウラム・ブリアシュ
アグム3世)
カラインダシュ
カダシュマン・ハルベ1世
クリガルズ1世
カダシュマン・エンリル1世(? - 前1376)
ブルナ・ブリアシュ2世(前1375 - 前1347)
カラ・ハルダシュ(Kara-ḫardaš)(前1347 - 前1345)
ナジ・ブガシュ
クリガルズ2世(前1345 - 前1324)
ナジ・マルッタシュ(前1323 - 前1298)
カダシュマン・トゥルグ(前1297 - 前1280)
カダシュマン・エンリル2世(前1279 - 前1265)
クドゥル・エンリル(前1265 - 前1255)
シャガラクティ・シュリアシュ(前1255 - 前1243)
カシュティリアシュ4世(前1243 - 前1235)
アッシリアの支配:前1235 - 前1227)
エンリル・ナディン・シュミ
カダシュマン・ハルベ2世
アダド・シュマ・イディナ
アダド・シュマ・ウスル(前1218 - 前1189)
メリシパク2世(前1188 - 前1174)
マルドゥク・アプラ・イディナ1世(メロダク・バルアダン1世)(前1173 - 前1161)
ザババ・シュマ・イディナ(前1161 - 前1159)
エンリル・ナディン・アヘ(前1159 - 前1157)

出典:カッシート人 - Wikipedia

ある碑文によると、バビロン第一王朝がヒッタイトに滅ぼされた時(前1595年)、ヒッタイト王によってバビロニアの国家神であるマルドゥクの像が持ちされた。それから24年後にカッシート人アグム2世がこの像を奪還した、という。ただし、この碑文は後世に書かれた物語の一部であり、どこまで信じてよいのか分からない。 *1

確実なものとしては、ブルナ・ブリアシュ1世(前1530-1500)がアッシリア王ブズル・アッシュル3世と境界を定める記録が遺っており、すくなくとも前1500年にはカッシート王朝が存在している。

そして前1475年頃、カシュティリアシュ3世の治世に(次代の王の)ウラム・ブリアシュ率いる軍によって「海の国第1王朝」を滅ぼし、バビロニアを統一する。

カッシート王朝はおよそ300年続き、バビロニアの歴史上最も長く続いた王朝となる。特に前15世紀の百年は安定した時代だった。オリエント世界ではエジプト、ヒッタイトアッシリアなどと共に大国の一つであった。そのことはエジプトの記録アマルナ文書で確認できる。ただし、この王朝の長さにも関わらず情報は極めて少なく(特に内政)、大国であったにもかかわらず影が薄い。

前述の通り、カッシート王朝はアッカド語やシュメール語を使用した。バビロニアの伝統を継承し、文化面では同時代のアッシリアにも影響を与えた。さらに後世の《新アッシリア時代の図書館で発見された文学作品の多くは、カッシート王朝時代の原典や編集作品の写本である》 *2

アッシリアとの戦い

14世紀半ばになると、アッシリア王国は大国ミタンニから独立する(ミタンニは小国に成り下がる)。独立を果たした王はアッシュール・ウバリト1世。この王の下でアッシリアは領土を拡大して一代でオリエント世界の大国にまでなった。

アッシリアの急激な勢力拡大にバビロニアは対応を迫られる。アビロニアはアッシリアを見下していたのだが *3 、結局、バビロニアアッシリアは政略結婚によって外交関係を結ぶことを選んだ。すなわちバビロニア王ブルナ・ブリアシュ2世がアッシュール・ウバリト1世の娘を妃として迎えた。

しかしブルナ・ブリアシュが死ぬとすぐに後継者争いが起こる。結果、アッシリア王家の血を引くカラハルダシュが王となるが、クーデターが起こって王は殺害される。さらに、ここでアッシュール・ウバリト1世が軍事介入して、クーデター側が立てた王ナジ・ブガシュを倒して、クリガルズ2世を立てた(彼がアッシュール・ウバリトの血を引くかどうかは分からない)。

これで、バビロニアアッシリアの勢力下に入るかと思いきや、そうではなかった。クリガルズ2世の次代ナジ・マルッタシュは同時代のアッシリア王アダド・ニラリ1世と境界地域の争奪戦をすることになる*4

前1225年、アッシリアの傑物トゥクルティ・ニヌルタ1世に一時期バビロニア全土を支配されるが ((王カシュティリアシュ4世と国家神マルドゥクの像をともに捕囚した))、 トゥクルティ・ニヌルタの死後、アッシリアが衰退するとすぐに独立して、再び対立関係が続いた。

その後。↓

紀元前1160年、ザババ・シュマ・イディナ(英語版)が即位し、アッシリアと戦ったが敗れて大きく領土を失った。ついでエラム王シュトルク・ナフンテ(英語版)の攻撃を受けてバビロンが陥落し、バビロンに祀られていたマルドゥクの神像を始め、ハンムラビ法典等多くの財宝がスサに持ち去られた(この時持ち去られたハンムラビ法典碑が20世紀に入ってスサで発見される事になる。)。

紀元前1157年、エンリル・ナディン・アヘ(英語版)が即位し、王朝復活を目指しエラムと戦うも敗れて死亡し、紀元前1155年バビロン第3王朝は滅亡した。

出典:カッシート人 - Wikipedia

以上、カッシート王朝の簡単な流れ。

イシン第2王朝(バビロン第4王朝)

カッシート王朝が滅びた後も、バビロニアエラムと交戦し続け、撃退することができた。その中で新しい王朝を築いたのが、イシン第2王朝(バビロン第4王朝)だ。

イシンはバビロニアの重要な都市のひとつで、かつてイシン第1王朝の王都になったことがある。だからイシン第2王朝と呼ばれるのだが。この王朝はカッシート王朝の領域をほぼすべて支配した。

マルドゥク・カビト・アヘシュ
イティ・マルドゥク・バラトゥ
ニヌルタ・ナディン・シュミ
ネブカドネザル1世(前1124 - 前1103)
エンリル・ナディン・アプリ
マルドゥク・ナディン・アヘ
マルドゥク・シャピク・ゼリ
アダド・アプラ・イディナ(前1067 - 前1046)
マルドゥク・アヘ・エリバ(前1045年)
マルドゥク・ゼリ・X(前1046 - 前1032)
ナブー・シュム・リブル(前1032 - 前1025)

出典:イシン - Wikipedia

この王朝について語られることは少ない。カッシート王朝の文化文明を継承したことと、ネブカドネザル1世がエラムに侵攻して、前王朝時代に奪われたマルドゥクの神像を奪い返したことくらいだ。

マルドゥク・ナディン・アヘの治世で、中アッシリアの傑物の一人ティグラト・ピレセル1世と交戦となる。一時期はアッシリアに侵攻したが、その後に逆襲されバビロンの王宮を焼かれることになった。

この直後、メソポタミア一帯は大飢饉に見舞われ、アラム人がバビロニアに大挙侵入する混乱のなか、王は消息不明となった。この後、第11代までの王名は知られているが、ことに最後の三代の王については治世年数しかわからず、前1026年にイシン第2王朝は滅亡する。

出典:小林氏/p188-189

イシン第2王朝滅亡の後

イシン第2王朝の崩壊と前後して、バビロニアでは短命の王朝がいくつも登場した。『バビロニア王名表』の記述に従えば、3人の王からなる「海の国」第2王朝(バビロン第5王朝、前1024年-前1004年)、やはり3人の王からなるバズ王朝(バビロン第6王朝、前1003年-前984年)、そして単独の王マルビティ・アプラ・ウツル(英語版)のエラム王朝(バビロン第7王朝、前983年-前978年)である[80]。この間の詳細は詳らかでない。

前1000年期初頭のバビロニアの歴史は『バビロニア王名表』『アッシリアバビロニア関係史』およびアッシリアの王碑文の部分的な記述からしか復元できず、極めて断片的にしかわからない[81]。前1000年期初頭の250年余りの期間はE王朝(バビロン第8王朝、前977年-前732年)と呼ばれ、ある程度国力を回復したであろうことが、アッシリアとの国境争いの記録から読み取れる

出典:バビロニア - Wikipedia

アッシリアにおいてもティグラト・ピレセル1世の死後は混乱が続いていた。数世紀に亘って、中東の乾燥化が続いたようだ。そしてこれがアラム人のメソポタミアバビロニアアッシリア)への侵攻を促した(アラム人はメソポタミアとシリアにいくつかの国家を作った)。

バビロニア時代の末期はこのような混乱が続く。次の新しい時代は、全オリエント世界を制覇した新アッシリア帝国に支配される時代となる。



*1:Agum II - Wikipedia

*2:小林登志子/古代メソポタミア全史/中公新書/2020/p175

*3:エジプトの記録であるアマルナ文書によれば、バビロニアは「アッシリアは我が国の臣下であるから、大国扱いするな(アッシリアの使者を追い返せ)」と要求した

*4:小林氏/p168