歴史の世界

古アッシリア時代② シリアの興亡

今回は古アッシリア時代のシリアの話を書いていく。

マリ、ヤムハド、カトナについて書く。

ミタンニについては次回の中アッシリア時代で書く。

ソースはwikipedia

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出典:シャムシ・アダド1世 - Wikipedia

マリ

マリ市については当ブログで何度も言及してきた。現在のシリア国内のユーフラテス川沿岸に在る都市で、イラクとの国境の近くに在る。メソポタミアと地中海を結ぶ要衝の地だ。

マリがシャムシ・アダド1世によって滅ぼされたことは前回書いた。マリ王ヤフドゥン・リムはシャムシ・アダドと互角以上に戦っていたが、マリ王が内紛で暗殺された混乱中に滅ぼされてしまった。

ヤフドゥン・リムの息子ジムリ・リムは西の大国ヤムハドに亡命して難を逃れ、シャムシ・アダドの死後、マリを奪還した。彼の治世にマリは復興した証拠として、300以上の部屋を持つ宮殿が発掘されている。

マリ市奪還の時からジムリ・リムはバビロンのハンムラビと同盟を組んでいたが、ハンムラビの勢力が強くなるに連れてハンムラビはマリ市のために援軍を出し渋るようになる。そしてハンムラビがメソポタミアを統一した後、前1759年、ハンムラビは同盟を破棄してマリ市を征服した。

「マリ市にはその後も人が住んでいたが、重要拠点として史料に現れることはなくなった。 」(ジムリ・リム - Wikipedia

ヤムハドと首都アレッポ

アレッポは、マリと同じく、メソポタミアと地中海を結ぶ要衝の地だ。前三千年紀にはHa-lamという名で記録されている *1

1800年頃、アムル人がこの地を支配してヤムハド王国を建国した。

アッシリア時代のアッシリアのシャムシ・アダド1世とは、始めのうちは他国と同盟を組んで対抗していたが、マリ国が滅亡した後はシャムシ・アダドと同盟を組んで繁栄を維持した。

一方で、シャムシ・アダドに滅ぼされたマリ王ヤフドゥン・リムの息子ジムリ・リムをアレッポで匿った。シャムシ・アダドが没するとジムリ・リムはマリを奪還した。

上記のように、マリはハンムラビによって滅ぼされるのだが、ハンムラビはそれ以上西には向かわず、ヤムハドと同盟を組んだ。ヤムハドはその後も繁栄を維持している。ハンムラビと同盟を結んだヤムハド王ヤリム・リム(1世)はカトナとはライバルだったが、現代シリア北部あたりの都市国家を征服または臣従させた。彼は大王(Great king)と呼ばれ、この称号は世襲された。

ヤリム・リム(1世)から約100年後の17世紀中葉にヤリム・リム3世が在位していたが、この頃になると内紛により弱体化していた。さらにアナトリア半島ヒッタイトが勢いを見せるようになった時期だった。

ヤリム・リム3世と同時代のヒッタイト王ハットゥシリ1世がシリアに侵攻し、ヤムハド側は防戦一方。ヤリム・リム3世の次代の王ハンムラビ3世(バビロンのハンムラビとは無関係)の治世にハットゥシリ1世はアレッポを攻撃するまでになった(陥落はしていない)。ハンムラビ3世は前1620年に死去するが、この時にはもはや大王と呼ぶ者はいなかった。前1600年、ハットゥシリ1世の次代の王ムルシリ1世によってアレッポが陥落し、ここでヤムハド王国は一旦滅亡する。

ムルシリ1世はバビロンを陥落させバビロン第一王朝を滅ぼした人物だが、ムルシリが遠征から帰還するとすぐに暗殺されてしまい、これよりヒッタイトは内紛状態となり、シリアは権力の空白状態となった。

この時期に、ヤムハドの王族の一人サラ・エラがアレッポを奪還した。しかしヤムハドの名は使われなくなり、君主の称号はハラブの王となった *2 (ハラブとはアレッポのこと)。

サラ・エラの2代あとのイリム・イリマ(Ilim-Ilimma I)の治世にミタンニ国によってアレッポを陥落された(前1524年)。

カトナとオロンテス川

カトナはメソポタミアからシリアのアレッポを経由してエジプトに繋がる通商要路にある都市。オロンテス川の支流に接していた。

オロンテス川

オロンテス川は、上の地図にあるように、南北に流れ(南から北)、これを遡ると陸路でエジプトに行ける。

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Qatna at its height in the eighteenth century BC

出典:Qatna - Wikipedia

  • カトナ王国の最盛期の版図

メソポタミアからエジプトへの行路はユーフラテス河岸のエマル(Emar)からアレッポ(Halab)を経由してオロンテス川を通ってカトナ(Qatna)へ、さらに南下して上流のベッカー高原へ。ベッカー高原からリタニ川を南下するとハゾル(ハツォルHazor)に到着する。ハゾルからさらにヨルダン川上流からガリラヤ湖を抜けて死海経由で紅海またはシナイ半島へ出る。

アッシリア時代は地中海の航路の言及は少ないが、次の時代、中アッシリア時代(前二千年紀後半)に盛んになってくる。そうなるとオロンテス川経由の行路の重要性は落ちることになる。ただしこの川の流域で、カデシュの戦い(前1286年頃)などいくつかの重要な事件があるので、重要性が全く無くなったわけではない。

カトナ

さて、カトナ(王国)の話に戻る。

王国建国は前2000年頃だが、最盛期はアッシリアのシャムシ・アダド1世と同時代のイシュヒ・アダドIshi-Adduの治世だった。この二国は同盟を組んで、比較的安定した時代であった。

ただしヤムハド王国のシリア北部の覇権が強くなるとヤムハド王は交易路のコントロールを支配するようになり、これがカトナを劣勢にさせた *3

前1759年にバビロンのハンムラビがマリを滅ぼすのだが、この事件以降、カトナの詳しい情報が途絶える。

前16世紀にミタンニ王国の属国になる。


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