歴史の世界

道家(18)老子(『老子』まとめ)

この記事では、書物の『老子』を二重括弧で表記し、人物の老子は括弧無しで表記する。

書物の『老子』は『道徳経』と表記されることもある。wikipediaでは『老子道徳経』という表記を採用している *1

この記事では、『老子』の内容についてまとめる。

老子』の著者と成立時期については、記事 《道家(2)老子(著者と成立時期)》 参照。

老子』の読者は支配者層

孫子』など古典の多くは、支配者層に読ませるために著された。『老子』も同様だ。

現在 日本で出版されている『老子』に関する本は啓発書に近い。日常をどのように豊かに暮らすかについてのヒントとして『老子』を扱っている。

こういった解釈は、『孫子』をビジネス書として読んでいるのと同様に応用の類であって、本当の解釈とは異なる。

本当の解釈は、簡単に言えば「支配者は如何にあるべきか」というものだ。

「道」について

道家の概念の中核と言われている「道」。

「道」については『老子』の解説本に難しく書いてあるが、ここでは簡単に言ってしまおう。

老子』における「道」は、一神教における造物主=神に近い。もちろん違いはあるが、重要な点は「道」は万物を造り、そして支配しているところだ。だから社会のシステム、秩序、慣習や日常も「道」の一部だ。

この「道」を体得した為政者は『老子』の中では聖人と呼ばれ、優れた為政者とされる。

道家(4)老子(「道」とはなにか) 参照)

無為自然

老子』を説明する時、「無為自然」は「道」の次に重要なキーワードらしい。

無為自然
作為がなく、自然のままであること。「無為」「自然」は共に「老子」にみられる語で、老子は、ことさらに知や欲をはたらかせず、自然に生きることをよしとした。

出典:小学館デジタル大辞泉/無為自然(ムイシゼン)とは - コトバンク

上の説明では、「だからなに?」と思うしか無い。

「無為」というのは「作為」の反対のこと、すなわち「有為」。

有為=作為とは『老子』の中では大事すなわち普段とは違う大きな行為を指す。そして有為の反対の無為は普段やっているような小さな行為を指す。だから無為は何もやっていないという意味ではない。

大事業などの大きな行為は大きなリスクを伴うことは誰もが認めるところだろう。『老子』はそのリスクを嫌い、有為をすべきではないという。

では大事業をしなければいけない時はどうするかというと、小さな行為をコツコツと積み上げていって成し遂げよと言っている。そんなことをしたら膨大な時間がかかって手遅れになってしまうと思うのだが、そういった時間の要素は『老子』は考慮に入れていない。

道家(4)老子(「道」とはなにか) 参照)

もう一つ、「無為自然」の「自然」とは何かについて。

老子』で使われている「自然」は、デジタル大辞泉の「自然のままであること」ではなく、「みずから」とか「自律的に」という意味。

第17章を例に挙げる。

[現代語訳]
〔統治者が〕ぼんやりとして一切の言葉を忘れてしまうならば、それが原因となって、人々は功績を挙げ事業を成し遂げる結果を得るが、しかし彼らはこれを自分たちで成し遂げたものと考えるのだ。

出典:池田知久/『老子』その思想を読み尽くす/講談社学術文庫/2017/p786-787

  • 「貴」の解釈は、他では「貴ぶ」としているところが多いが、池田氏によれば「貴」=「遺」=「忘れる、捨てる」としている。こちらのほうが意味が通じていると思う。

無為自然」の意味は《為政者が「無為の政治」をすることによって、人民が自律的に行動する(そして良く治まる)》となる。

道家(10)老子(「無為自然」と政治) - 歴史の世界を綴る 参照)

戦略書としての『老子

日本では『老子』は啓発書として紹介されることが多いが、デレク・ユアン氏によれば、中国では戦略書と見なされることが多いという。 *2

真説 - 孫子 (単行本)

真説 - 孫子 (単行本)

老子』第57章の一部を引用。

[現代語訳のみ]
国家を統治するには、正直にする。戦いを行うには、人をだます。しかし、天下を勝ち取るのは、手出しをしないことによってである。

出典:デレク・ユアン/真説 孫子中央公論新社/2016(原著は2014年出版)/p124

「人をだます」とあるが、これは『孫子』の詭道のことだ。ユアン氏によれば、『老子』の編纂者たちは『孫子』の考えの一部を取り入れたといういうことだ。

孫子』は軍事戦略の傾向が強いが、『老子』編纂者たちは『孫子』のエッセンスを応用して非軍事面の戦略へ拡大させた。そして中国戦略思想が完成した。

戦略書としての『老子』に関しては、記事 《道家(11)老子(戦略書としての『老子』①--『老子』は『孫子』の影響を受けている)》 などで書いた。



*1:老子道徳経 - Wikipedia

*2:デレク・ユアン/真説 孫子中央公論新社/2016(原著は2014年出版)/p89

道家(17)老子(『老子』の有名な言葉  後編)

前回の続き。

上善如水

第8章の一部。

[書き下し文]
上善は水の如し。
水は善く万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に居(お)る。
故に道に幾(ちか)し。

[現代語訳]
一体、最上の善は、水に譬えられる。
水というものは、万物に優れた恵みをもたらすだけであって、勝ちを求めて他と争おうとせず、大衆の嫌がる低い地位に安住している。
だからこそ、道に近い存在なのだ。

出典:書き下し文:守屋洋守屋洋/世界最高の人生哲学 老子/SBクリエイティブ/2016/p24
現代語訳:池田知久/『老子』その思想を読み尽くす/講談社学術文庫/2017/p776

上の言葉は「人と争ず、謙虚であれ。そうすれば道の体得に一歩近づけるだろう」くらいの解釈でいいだろうか。

ただし『老子』は「道」を体得しようとする為政者たちを対象とする書なので、ただ単に謙虚になって「道」を極めようと言ってるわけではない。

第66章(の一部)は以下のように書いてある。

[現代語訳のみ]
「道」を体得した人物は、国民を統治しようとするとき、謙虚な態度でへりくだる。国民を指導しようとするときには、自分は後ろに退いて、いっこうに指導者ぶらない。
だから、上に座っていても、国民は重いとは感じないし、先に立っていても、邪魔だとは感じない。このように、国民から喜んで迎えられるのは、才能や功績を競おうとしないからだ。だから国民はおのずと帰服するのである。

出典:守屋氏/p277

要するに、為政者が国民・庶民に帰服されたいのなら謙虚であれ、ということだ。

学絶てば憂い無し

第20章から。

[書き下し文]
学を絶てば憂い無し。
唯(い)と訶(か)とは、其の相い去ること幾何(いくばく)ぞ。
美と悪とは、其の相去ること何若(いかん)。

[現代語訳]
およそ学問さえ捨ててしまえば、我々の抱く悩みはなくなる。
学問によって教えられる、ハイという返辞とコラという怒鳴り声とは、そもそもどれほどの違いがあろうか。
うつくしいものと醜いものとは、一体、どれほどの隔たりがあろうか。

出典:池田氏/p789-790

上のように学問を否定しているのだが、この第20章の後半には「道」について長々と書いている。

これは、池田氏によれば、《『老子』における「学」の肯定は、「道」とその同類を捉える「学」の場合だけに限って認められる》 *1とある。

要するに道家以外の学問は学ぶなということだろう。

そして第48章の一部に以下のようにある。

[読み下し文]
学を為す者は日に益し、道を開くものは損す。
之を損し又た損して、以て為す無きに至る。
為す無くして為さざる無し。

[現代語訳]
そもそも学問をおさめる者は、日に日に外部から知識・倫理を取り入れて益していくが、
逆に、根源の道を為(おさ)める者は、日に日に内面から夾雑物を捨て去って減らしていく。
減らした上にもさらに減らしていくと、ついに一切の人為を捨て去った無為の境地に達するであろう。

出典:池田氏/p821

道家以外の学問を《日に日に外部から知識・倫理》《夾雑物》としている。道家の先生からすれば、道家以外の、善悪などの倫理道徳や、美醜などの価値基準は、邪魔なもの、求道者を阻害するものでしか無いということになるだろう。

足るを知る

第44章から。

[書き下し文]
足るを知れば辱められず、
止(とど)まるを知れば殆(あや)うからず。
以って長久なるべし。

[現代語訳]
足ることを心得ていれば、辱めを受けない。
止まることを心得ていれば、危険はない。
いつも安らかに暮らすことができる。

出典:守屋氏/p54

老子』の中の長寿の方法論の一部第33章も同様の内容。

「やりすぎは身を滅ぼす」は『老子』の中核を為す考え方で、これを長寿の方法論に当てたのが上の章だ。

和光同塵

第4章から。

[書き下し文]
道は冲(ちゅう)なれども、これを用(もち)うれば、盈(み)たざるあり。
淵として万物の宗に似たり。
その鋭なるを挫き、その粉を解き、
その光を和らげ、その塵(ちり)に同(おな)じうす。
湛(たん)として存する或るに似たり。[中略]

[現代語訳]
道は、形のない空虚な存在であるが、その働きは無限である。
計り知れない深さのなかに、万物を生み出す力を秘めているかのようだ。
とげとげしさを消し去って対立を解消し、
才知を包み込んで世俗と同調している。
道は、しんと静まりかえっているが、たしかに存在している。[中略]

[解説]
「和光」──光を和らぐとは、自分の持っている光、つまり才知や才能をギラギラ光らせない、見せびらかさないということ。また、「同塵」──「塵に同じうす」とは、世俗と同調し、高ぶったり、偉ぶったりしないという意味である。

出典:守屋氏/p42

老子』の書かれた時代、書を読める人は支配者階級の一部に過ぎなかった。「光」の比喩の中には家格や地位も含まれるだろう。

和光同塵」をモットーに振る舞えば庶民は「おのずと帰服」しますよ、逆に、自分の地位・才覚を笠に着て偉ぶるような振る舞いをすれば、身を滅ぼしますよ、という意味。

柔よく剛を制す

[書き下し文]
天下に水より柔弱なるはなし。
而して堅強を攻むるはこれに能く先んずるなし。
その以ってこれを易(か)うることなきを以ってなり。
柔の剛に勝ち、弱の強に勝つは、天下知らざるなきも、これを能く行うものなし。[中略]

[現代語訳]
この世の中で、水ほど弱いものはない。
そのくせ、強いものにうち勝つこと水に優るものはない。
それは他でもない、弱さに徹しているからである。
柔は剛に勝ち、弱は強に勝つ。この道理を知らないものはいないが、よく実行している者はいない。

出典:守屋氏/p29

柔弱については、 《道家(13)老子(戦略書としての『老子』③--「反」の理論)》 で書いた。

常に剛強であろうとすれば、それが立ち行かなくなった時に反動が大きく、結果として身を滅ぼすことになりかねない。例えば川に剛強な堤防を造ったとして、その堤防が決壊したときの川の流れは村を滅ぼすほどの威力がある。

一方、常に柔弱な者はそのような反動を心配する必要がない。

また、柔弱な者が剛強な者に勝とうとするならば、剛強な者にさらに剛強になるように誘導して、最終的に身を滅ぼすように仕向ける、という方法がある。

世界最高の人生哲学 老子

世界最高の人生哲学 老子



*1:池田氏/p254

道家(16)老子(『老子』の有名な言葉  前編)

老子』の中には、『老子』を知らない人でも知っている言葉が幾つかある。その中の幾つかの意味をここに書留めておく。

大国を治むるは小鮮を烹るが如し

第60章より。

[書き下し文]
大国を治むるは小鮮を烹るが若(ごと)し。
道を以って天下に莅(のぞ)めば、その鬼(き)、神(しん)ならず。
その鬼、神ならざるに非ず、その神、人を傷(やぶ)らず。
その神、人を傷らざるに非ず、聖人もまた人を傷らず。
それ両(ふた)つながら相傷らず、故に徳交(こもごも)帰す。[中略]

[現代語訳]
国を治めるのは小魚を煮るようなもの、やたら掻き回してはならない。
無為の「道」をもって天下を治めれば、鬼神も祟りを起こさなくなる。
いや、祟りを起こさないわけではない。祟りを起こしても、人に害を与えなくなるのだ。
鬼神が害を与えなくなるだけではない。為政者も害を与えなくなる。
鬼神も為政者も害を与えない。その結果、両者の徳が政治に反映されるのだ。[中略]

[解説]
老子』の政治哲学をずばり語っているのが、「大国を治むるは小鮮を烹るが若し」ということばである。

「小鮮」とは小魚のこと。小魚を煮るとき、やたら突いたり、掻き回したりすると、形も崩れるし、味も落ちてしまう。そろりそろりと煮るのがコツなのだという。国の政治もそれと同じこと。細かな所までうるさく干渉すれば、下からの活力を殺してしまい、はては無用な反発さえ招きかねない。肝心な所だけおさえておいて、あとは民間の活力に任せたほうがうまくいくのだという。

出典:守屋洋守屋洋/世界最高の人生哲学 老子/SBクリエイティブ/2016/p220-221

「大国を治むるは小鮮を烹るが若し」は『老子』の政治哲学、すなわち「無為の政治」だ。

「無為」は「何もしない」ということではなく、「よけいなことをしない」くらいの意味。

「無為の政治」については記事 《道家(9)老子(「無為」について③--「無為」と政治)》 に書いた。

「無為」については 《道家(7)老子(「無為」について①--「無為」と「有為」の境界)》。

天網恢恢疎にして失わず

第73章より。

[書き下し文]
敢(あえ)てするに勇なれば則ち殺し、敢てせざるに勇なれば則ち活(い)く。
この両者は或(あるい)は利 或は害。
天の悪(にく)む所、孰(たれ)かその故をしらんや。
天の道は戦わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、召(まね)かずして自(おのずか)ら来たり、繟(せん)として善く謀る。
天網は恢恢(かいかい)、疎にして失わず。

[現代語訳]
およそ人為を行おうとして勇気を振る舞う者は殺され、反対に無為を行おうとして、勇気を振る舞う者は生き延びる。
この両者は、確かに一方は利であり他方は害であって、異なるように見えるけれども、根源者たる天はどちらもともに嫌うのだ。誰にその理由が分かるであろうか。
一体、天の道は、およそ人間の勇気などとは縁もゆかりもないものであって、戦争を仕掛けるまでもなく立派に相手に勝ち、言葉を用いるまでもなくきちんと相手に応対でき、呼び寄せるまでもなく相手が自らやって来て、静かに構えていながらうまく策謀をめぐらすことができる、という働きを備えている。
人類全体を上から覆う天の網は広大無辺であって、その目は粗いけれども何一つ見逃すことはないのだ。

出典:書き下し文:守屋氏/p166-167
現代語訳:池田知久/『老子』その思想を読み尽くす/講談社学術文庫/2017/p848

「天網恢恢疎にして失わず」は「天罰は決して見逃されることはない」のような意味とされている。「天網恢恢疎にして漏らさず」でも同じ意味。

だがしかし、出典元の『老子』第73章では、どうもその意味で書かれていないようだ。

第73章を見ていこう。

第73章は「勇」と「天の道」について書かれている。

前半で書かれた2つの「勇」について、「天の道」は「縁もゆかりもないもの」と切り捨てている。後半で書いてあることは「無為の政治」すなわち『老子』の理想の政治環境を表している。

そして最後に書かれた「天網恢恢疎にして失わず」は、「無為の政治」に掛かっている。

つまり「その目は粗いけれども何一つ見逃すことはない」とは、法家が作る息詰まるような政治・社会ではなく、無駄なことはせずに急所だけを押さえて何も見逃さない政治・社会が『老子』の理想の政治環境だということになる。

つまりは「小鮮を烹る」ような政治だ。

小国寡民

第80章より。

[書き下し文]
小邦寡民、十百人の器あれども用(もち)うることなからしむ。
民をして死を重んじて徙(うつ)るに遠ざからしむ。
舟車あれどもこれに乗ずる所なく、甲兵あれどもこれを陣する所なし。
民をして復(また)縄を結びてこれを用いしむ。
その食を甘しとし、その服を美とし、その俗を楽しみ、その居に安んず。
隣邦相望み、鶏犬の声相聞こえ、民、老死に至るまで相往来せず。

[現代語訳]
どんな社会が理想なのか。人口も少ない。
文明の力に恵まれたとしても、人々は見向きもしない。
それぞれに人生を楽しみ、他所へ移ろうとしない。
舟や車があっても乗ろうとはしないし、武器はあっても手にとろうとはしない。
あえて読み書きを習おうともしない。
それぞれの生活に満足し、それぞれに生活を楽しんでいる。
鶏や犬の声が聞こえてくるようなすぐ近くに隣の国があっても、往来する気などさらさらにない。

 *縄を結ぶ 文字が作られる前の太古の時代、縄の結び目によって意思を伝えあったと言われる。

出典:守屋氏/p87

ここには引用しないが、守屋氏の解説では「小国寡民」を住民側から見た理想の桃源郷のように見立てていた。

しかし、池田知久氏は支配者側の理想だとしている。(池田氏/p483)

ここでは池田氏の説明を採用して以下に書く。

書き下し文に《なからしむ》《遠ざからしむ》とあるが原文では「~しむける」という使役の助動詞「使」が用いられている。よって「邦」の住民が自ら上のように行動しているというよりも、支配者(層)が彼らをそのように「しむけて」いることが分かる。

老子』の政治思想では、法によって住民を縛ることを良しとせず、住民をどうにかコントロールして支配者の理想(つまり「道」)に誘導することを良しとする。

井の中の蛙、大海を知らず」という言葉があるが、支配者が住民に「井の中」に居ることを満足させることができれば、支配者の理想は叶うのだろう。

『老子』 その思想を読み尽くす (講談社学術文庫)

『老子』 その思想を読み尽くす (講談社学術文庫)



道家(15)老子(戦略書としての『老子』⑤--中国の戦略思想──西洋との違い)

この記事では、中国の戦略思想を西洋のそれと比較して、その特徴を書いていく。

真説 - 孫子 (単行本)

真説 - 孫子 (単行本)

デレク・ユアン氏はイギリスのレディング大学で戦略学の泰斗であるコリン・グレイ氏の下で博士号を取得している。

ユアン氏は香港人だが、この原著がロンドンで出版されているので、対象読者はイギリス人(アメリカでも出版されている)。

原著の目的の一つとして、曰く「西洋における中国の戦略の理解促進に大きな役割を果たすことを目的としている。」(p10)

「戦略」

端的に言えば、戦略とは「望ましい結果を達成するために選択されれた方法や手段によって構成された、指示やその使用」と定義できる。この簡潔な定義が暗示しているのは、特定の手段の使用によって望ましい目標を達成する、ということだ。言い換えれば、これは暗黙的に「手段と目的の枠組み」を含んでいる。これこそが西洋の伝統的な戦略観である。

出典:デレク・ユアン/真説 孫子中央公論新社/2016(原著は2014年出版)/p105

デレク氏は、上の「手段と目的の枠組み」に加えて合理性も西洋の伝統的な戦略観の一つとしている。

そしてこの本では、西洋の戦略思想における行動方針を「手段目的・合理性アプローチ」と名付けている。(p105)

これに対して中国のそれには「状況・帰結アプローチ」と名付けている。(p105)

「状況・帰結アプローチ」とはどういうものかと言うと、「帰結」すなわち最終目的を実現させるために、あらかじめ状況を確立しておく(p108)、ということ。「状況」とは『孫子』の言うところの「形」であり、「形」とは「適切な状況を作り出すこと」だ。

ここで重要なことは、敵を自陣に有利な「形」に誘導することで、自陣は逆のことをされないことだ。そのためには、敵の状況を把握し、自陣の状況を把握されないことが基本となる。

西洋の戦略と比較して際立つのは、中国のそれは最終目的に直接に働きかけることを避けて、好ましい状況を作り出すことを最優先することだ。(p106-107)

「状況・帰結アプローチ」のもう一つの特徴は、「現実は常に変化している」という「世界観」の下に戦略を立てて行動していることだ。

以下の引用では西洋と比較して説明している。

タオイスト[『老子』の編集者たち──引用者]の世界観は、戦争と戦略にとって重要な暗示を含んでいる。戦いの決定的な性質は、戦争の現実と、抽象的な理論モデルとの間に必然的に存在するその距離感にあるからだ。戦いのエッセンスは、そのモデルを裏切るところにある。戦争や戦いに関する理論の形成が極めて難しいのはまさにここにあり、これまでのほとんどの理論は、理論と実践の間のギャップを超えることができていない。西洋にとってこの弱点は、とりわけ大きな問題となる。これはプラトンにまでさかのぼる、しっかりと定義された明確なパターンに注目する、西洋の伝統だからだ。西洋ではあらかじめ設定した計画なしでは戦争を考えないものであるが、そうなるとその計画は、変化する状況と必然的に衝突することになる。この二つの問題は、まさに老子がタオイストの世界観──道は無形であり現実は常に変化している──を導入することによって、指摘・解決しようとしたものなのだ。戦いの分野では、すでに長年認識されてきたものであるように、一つのことに固執するというものほど危険なものはない。つまりあらゆる可能性を秘めた状況の変化に対して、行為者が柔軟に対応しようとするのを妨げるようなルールや命令を設定することほど、最悪のものはないということだ。タオイストは道という概念を採用することによって状況の変化にも対応できるようになったのであり、これによって、あらゆるモデルに取って代わる力を秘めた「変動モデル」への第一歩となったのだ。(p119-120)

孫子』の計篇にあるように *1、 中国の戦略思想において、当初の計画を立てないわけではない。

ただし、中国の将軍たちは あえて計画を詰めることはせずに、「状況の進展から最大限の有利を引き出そうとし続ける」。(p110)

重要なのは「現実は常に変化している」という世界観のもとに「一つのことに固執する」ことから脱却できることだ。

「後発制人」

「後発制人」は「敵が攻撃した後に攻撃を開始することによって主導権を握る」というもの。

西洋の「先制」的な概念とは大きく異なり、西洋の人々にとって分かりづらいものとなりやすいという。(p121)

「後発制人」は日本で言うところの「後の先」と言えるだろうか。 *2 「後の先」といえば、ボクシングなどのスポーツや将棋で使われる用語として知っている人も少なくないだろう。ボクシングで言えばカウンターパンチ。将棋で言えば、まず自分の有利な状況を作り出して相手に手を渡して仕掛けさせた後に反撃するというもの。

ただし相手に先制させた上で勝つためには、相手を状況(すなわち「形」)を把握していることが前提となる。

ところが勝利に必要な状況をつくったり、敵の「形」を把握するまでには時間がかかるものであり、それを無理やり行うことはできない。だからこそ孫子は「勝利はわかっていても、正気を無理につくり出すことはできない」と述べたのだ。言い換えれば、攻撃を行う前に、敵が「形」、そして弱点を暴露するまで待つべきであるということになる。[中略]

「様子見」は、状況・帰結アプローチにとって不可欠なものであり、これは中国の戦略思想において積極的な目的を持っていることになる。あらかじめ決められた帰結を実現させるためには、状況が発展してきて機が熟すまでの時間が必要だからだ。将軍は決定された状況の流れを様子見する(先の状況を見越してそれが有利になるのを待つ)ことができる。将軍は「様子見」をしているように見えるかも知れないが、これは実際のところ「先を見越して待つ」ということである。(p122)

このアイデアは『孫子』の中にあったものを『老子』の編纂者たち(タオイスト)が発展させたものだという。そして中国の戦略思想の基本方針となった。(p121)

現代中国と「後発制人」

「後発制人」のアイデアは現代中国にも受け継がれて中共軍の戦略の一部となっていたが、最近は習近平国家主席のもと攻勢に転じて、どうやら「後発制人」は形骸化しているようだ。

今回の「中国の軍事戦略」の記者発表で最初に強調されたのが積極防御である。中国においては、毛沢東以来の積極防御戦略を今に至るまでずっと踏襲してきたが、今年の2015国防白書でも積極防御戦略が採用されている。

その意味では変わりばえのしない「中国の軍事戦略」になっている。

中国では毛沢東以来、「積極防御戦略が中国共産党の軍事戦略の基本」であり、「戦略上は防御、自衛及び後発制人(攻撃された後に反撃する)を堅持する」という表現が長く踏襲されてきた。

これだけを読むと中国の軍事戦略は極めて防御的であると読めるが、これは一種のプロパガンダであり、「米国防省の年次報告書」は毎年、中国の「後発制人」に疑念を呈してきた。

つまり中国の「後発制人」は建前に過ぎないと主張してきたのである。中国は朝鮮戦争において先制攻撃を行ったし、インド・ソ連ベトナムとの国境紛争において先制攻撃を行ってきたのである。

中国は、湾岸戦争(1990~1991)、コソボ紛争(1996~1999)、イラク戦争(2003~2011)などを観察し、IT(情報技術)などの最新の科学技術がもたらした米軍の「軍事における革命(RMA: Revolution in Military Affairs)」に驚嘆し、ITの重要性を認識するとともに、先制攻撃が圧倒的に有利であることを認識したのである。

中国は今や、宇宙やサイバー空間における先制攻撃は避けられないと認識するとともに、「戦役戦闘上は積極的な攻勢行動と先機制敵の採用を重視する」と表現するに至ったのである。

以上の議論をまとめると、「戦略指導においては、戦略上の防御と後発制人(攻撃された後に反撃する)を堅持し、戦役戦闘上は積極的な攻勢行動と先機制敵の採用を重視する」という苦しい表現になる。

前半の「戦略指導においては、戦略上の防御と後発制人(攻撃された後に反撃する)を堅持し」という表現はプロパガンダとしての建前であり、後半の「戦役戦闘上は積極的な攻勢行動と先機制敵の採用を重視する」が本音である。

つまり伝統的な建前と現代戦における戦勝獲得のための本音が混在したのが中国軍事戦略の本質である。

出典:渡部悦和/矛盾に満ちた中国の軍事戦略/日本戦略研究フォーラム

指桑罵槐」という言葉

中国人の行動原理を表すものに、「指桑罵槐(しそうばかい)(桑を指して槐・えんじゅを罵る)ということわざがある。桑は畑に植えられる木で、葉は蚕のエサになるが、槐は街路樹や庭木として植えられ、家具を作る際の材料となる喬木であって、似ても似つかない。つまり「桑の木をさして槐を罵る」というのは、「本当の怒りの対象とは全然別のものを攻撃する」という意味である。「ニワトリを指して犬を罵る」と言っても意味は同じである。

中国人が怒っているとき、その言葉を鵜呑みにしてはいけない。中国人は、どんなときも表立って誰かを批判したり、攻撃することはけっしてない。当事者を直接批判することはほとんどなく、この「桑を指して槐を罵る」というやり方を採る。つまり、ある相手を攻撃しているように見せて、実は別のところにいる人を批判しているのである。

だから、もし中国人が面と向かって罵り言葉を投げ付けたときには、それに直ちに反応してはならない。よく相手を観察し、彼らが真に攻撃したい対象が別のところにあるのではないかと考えるべきである。言い換えるなら、彼らが書かないこと、語らないことにこそ、事の本質が潜んでいるとみるべきなのである。

出典:岡田英弘/この厄介な国、中国/WAC BUNKO/2001 *3/p20-21 /p20

指桑罵槐」は「形」を形成するための手段なのだろう。

岡田氏の弟子である宮脇淳子氏によれば、中国人は日常の中でも戦略的な思考をしているという。



*1:「夫れ未だ戦わずして廟算して勝つ者は、算を得ること多ければなり

*2:『アンティークマン』というブログの記事 「「遅れて攻めれば、国を制す…!」要注意です」参照

*3:『妻も敵なり』(1997)を改訂

道家(14)老子(戦略書としての『老子』④--「無形」と「道」と世界観)

今回は《実は『老子』の中の重要な概念「無」「無為」も『孫子』の「無形」から発展したものだった》という お話。

真説 - 孫子 (単行本)

真説 - 孫子 (単行本)

水の比喩と「無形」と「無」「無為」

そもそも軍の態勢は水のありかたに似ている。水の流れは高いところを避けて低いところへ走る。軍の態勢も兵員装備の充実した敵を避けて、虚(すき)のある敵を撃つ。水は地形によって流れを決めるが、軍は敵情によって勝を決める。だから、軍には一定した勢いというものはなく、水には一定した形というものはない。巧みに敵情に応じて変化し、勝利を治めることのできるもの、これが神妙というものである(第6 虚実篇)。

出典:デレク・ユアン/真説 孫子中央公論新社/2016(原著は2014年出版)/p108

この中には、前回の記事の中で書いた「勢」について書いてある。

これと対となって書かれているのが「一定した形というものはない」、つまりこれが「無形」。

ユアン氏によれば、上の水の比喩には「勢」と「無形」 *1 を表しており、『老子』の編集者はその2つのコンセプトを利用したとしている。

「勢」については前回書いたので、今回は「無形」を書く。

水は無形の概念を表すためには最適なイメージであり、この比喩は、主にこの目的の達成のためにつくられたものであると言える。ところが『孫子兵法』全体にも言えることであるが、無形という概念は、軍事の分野に応用するための原則として提唱されたものだ。よって、この概念をより一般的な分野に応用するためには、多くの修正が必要となったのである。結果として、『道徳経』の変遷者たちは水のイメージを捨てて、無形の概念を最も重要な概念である道(タオ)へと大きく応用し直したのだ。

すでに『道徳経』の最初の章の中で道は「語りうるもの」でないし「名づけうるもの」でもないと説明されている。そして無形という概念は、道についての多くの説明において様々な形で再提示されている。

出典:ユアン氏/p116-117

つまり『孫子兵法』(=『孫子』)の「無形」が『道徳経』(=『老子』)の「無」「無為」の概念になったのだ。(「無」や「無為」については記事「道家(6)~(10)」で書いた。)

ただし、《無形の概念を最も重要な概念である道(タオ)へと大きく応用し直したのだ》とあることので、水の比喩から「道」ができたわけではないようだ。

「無」「無為」の概念のせいで「道」の理解が難しくなった?

一つ困ったことに、ユアン氏曰く、「一般的な分野に応用するために」水の比喩から「道」へと より抽象度の高い概念にしてしまったために、「道」がどういうものなのか理解することが難しくなってしまった。

これは素人だけではなく専門家でさえ難しいらしい。専門家をして「道」についていくらか確実なことを言えるとすれば「変化は不変である」ことくらいだそうだ(p117)。

「道」と「世界観」

この抽象度の高い「道」の概念は現代日本では人生哲学の一部として使われていたりするが、戦略書として『老子』を読むならば、「道」は政治における世界観を形成するという。

世界観について

ここで話は逸れるが世界観についてかいておきたい。『老子』関する世界観ではなく、政治一般に関する世界観について。

戦略においての世界観という用語は、上のユアン氏の本の翻訳者である奥山真司氏によれば、戦略の階層の最も根本の部分である。

f:id:rekisi2100:20190613104433p:plain

出典:奥山真司/戦略の階層を個人向けに修正 /地政学を英国で学んだ

例えば現代韓国を例に取ると、あの訳の分からない反日活動を「政策」(≒行動方針)とすると その方針の源になるのが「世界観」で韓国人の歴史観や劣等感や儒教小中華思想による日本(人)蔑視などが含まれる。

上の図の引用元では「戦略の階層を個人向けに修正」した案を書いているが、そこでは

  • 世界観→人生観
  • 政策→生きざま/生き方

と書いている。

一般人が生活していく上で、その行動は人生観によって決められているということになるだろう。

(世界観や戦略の階層について詳しくなりたいのならば、ネットで「世界観 戦略 奥山真司」で検索するのが手っ取り早い。

「道」と「世界観」に戻る

話は「道」と「世界観」に戻る。

ユアン氏によれば、『老子』の世界観は「道は無形であり現実は常に変化している」(p120)。

戦いの分野では、すでに長年認識されてきたものであるように、一つのことに固執するというものほど危険なものはない。つまりあらゆる可能性を秘めた状況の変化に対して、行為者が柔軟に対応しようとするのを妨げるようなルールや命令を設定することほど、最悪のものはないということだ。タオイスト[ここでは『老子』の編纂者の意味--引用者]は道(タオ)という概念を採用することによって状況の変化にも対応できるようになったのであり、これによって、あらゆるモデルに取って代わる力を秘めた「変動モデル」への第一歩となったのだ。だからこそ老子は「柔弱(すなおさ)を保持することが(真の)強さとよばれる」(第52章)と主張する。

出典:ユアン氏/p120

「柔弱」については前回書いたが、《成熟したり極限に至って「反転」してしまうことを阻止》する能力のことをいう(p114)。

前回書いたとおり、「道」(=法則・慣習・日常など)から大きく逸脱すると、「反」の理論によって破滅するのだから、「柔弱」を保持する者が最終的には「剛強」「堅強」に勝つことになる。

タオイストはこのような世界観を土台として、行動方針(政治なら政策)を考えていく。

中国の世界観

さて、中国の戦略思想は『老子』の編纂者たちによって完成された、とユアン氏は主張している(p123)。これは現代中国にまで通用する。

国史の中で特に有名なのが前漢初期の「黄老思想」の政治だ。「黄老思想」は『老子』の思想のことだ。

ユアン氏によれば、現代中国において、国内政策の胡錦濤の「不折騰」(いじくりまわさず)には「大きな国を治めることは、小さな魚を煮るのに似ている」(大国を治むるは小鮮を烹(に)るが若し--第60章)という意味を含んでる。他方、対外政策の鄧小平の「韜光養晦」(とうこうようかい)には《「才能を隠して、内に力を蓄える」という中国の外交・安保の方針》*2 のこと。同じく対外政策の胡錦濤の「平和的台頭」もこの意味だ。ユアン氏は「このような概念は、最初にタオイストのアイディアを把握できないと、そもそも理解できないものだ」と書いている。

だが2019年現在、習近平国家主席の政策は「中国製造2025」に代表されるように、世界覇権国アメリカに挑戦している。

そして米中冷戦とか米中経済戦争などと言われる確執の中で中国は劣勢に立たされている。このような状況を竹田恒泰氏は「因幡の白兎」に例えて「習近平は鄧小平・胡錦濤の努力を台無しにする」という趣旨のことを主張している。石平氏も同じような考えで「習近平はバカだ」と言っている。

その一方で、渡部悦和氏、江崎道朗氏、潮匡人氏らは中国が技術分野の中でアメリカを凌駕している部門があることに危機感を抱いている(日本などは遥かに遅れをとっている)と主張している。軍事・安全保障の専門家ほ土器期間が強いのかも知れない。



道家(13)老子(戦略書としての『老子』③--「反」の理論)

前回の続き。

今回は「反」の理論。

真説 - 孫子 (単行本)

真説 - 孫子 (単行本)

「反」の理論

前回 引用したものの中から再び引用する。「反」を説明する文章。

(あるものを)収縮させようと思えば、まず張りつめておかなければならない。弱めようと思えば、まず強めておかなければならない。衰えさせようと思えば、まず勢いよくさせておかなければならない。奪いとろうと思えば、まず与えておかなければならない。これが「明(ひかり)を微(かす)かにすること」とよばれる(道徳経:第36章)。

出典:デレク・ユアン/真説 孫子中央公論新社/2016(原著は2014年出版)/p101-102

  • 『道徳経』=『老子

つまり反発・反作用を使って思い通りの状況を作るという理論(?)だ。

「反」の理論は「道」と直接的な関係にある。

活気に満ちたものにも、その衰えのときがある。これ(粗暴)は「道」に反することとよばれる。「道」に反することは、すぐに終わってしまう(道徳経:第30章)。(p102)

ユアン氏は《「反」は、物事が一極にふれるとすぐに反対の方向に向かうという道(タオ)の動きと合致している》と書いている。

「道」は法則・秩序である。

法則と違う動きをすると反作用が起こって引き戻される。秩序に違反すれば罰を受けた後に秩序に戻るように強制される。これが「反」の理論だ。

では何故「衰えさせようと思えば、まず勢いよくさせておかなければならない。奪いとろうと思えば、まず与えておかなければならない」のか?

それは「道」から大きく逸脱させることによって反動を大きくさせて、その反動の力を以って敵を破滅させるためだ。

卑近の例を出せば、水風船を割るために より高いところから落とすようなものだ。物理法則で言えば位置エネルギーと運動エネルギーの話。

「反」の理論と「道」

「反」の理論を使うために、まず何をするべきか。

まずは引用。

「ねじ曲げられるものが完全に残る」。まっすぐであるためには、身をかがめよ。いっぱいになるには、くぼみがあるべきだ。(衣服の)ぼろぼろになったのが、新しくなるのだ。少ししかもたない人は、もっと多く得るだろうし、たくさんもつ人は、思いなやむばかりだ。それゆえに聖人は、(太初の)「一」をしっかり握り、天下のあらゆるものの規範となる(道徳経:第22章)。(p104)

「(衣服の)ぼろぼろになったのが、新しくなる」はネガティブなイメージからポジティブなイメージの転換を表し、「たくさんもつ人は、思いなやむばかりだ」は その逆を表す。

ユアン氏が「反」の理論の例として上の文章を引用したということは、この理論が戦略(軍事・政治)レベルだけでなく、日常レベルの話でも通用するものだということだろう。

つまり「反動を大きくさせて、その反動の力を以って敵を破滅させる」だけではなく、日常の中で普段の生活(=道)から逸脱した状況から戻ることも「反」の理論に含まれるということになる。

老子』の中の「聖人」とは《「道」を体得した者(為政者)》といった意味になる。《(太初の)「一」》とは「道」のことだから「一」をしっかり握るとは「道」を把握するということで、上の文章の場合は「反」の理論を熟知しているという意味になる。

そして《聖人は、……、天下のあらゆるものの規範となる》の意味は「道」を体得した(そして「反」の理論を充分に理解した)為政者は天下(全中国)の王となる、となる。

「反」の理論を使うためには、まず「道」(法則・秩序)を充分に把握することが重要となることが分かる。

「反」の理論と「柔弱」

いきなり「柔弱」という言葉が出てきた。「反」の理論に関係する用語。

あともどりするのが「道」の動き方である。弱さが「道」の働きである(道徳経:第40章)。(p103)

「あともどりする」は「反」の理論を表している。「弱さ」が柔弱のことだ。

つまり「反」の理論を使いこなすために「柔弱」という方策(スキーム)が必要になってくる(p103)、ということ。

柔弱・弱さについては『老子』に多く書かれている。

一つ引用。

天下において、水ほど柔らかくしなやかなものはない。しかし、それが堅く手ごわいものを攻撃すると、それに勝てるものはない。ほかにその代わりになるものがないからである。しなやかなものが手ごわいものを負かし、柔らかいものが堅いものを負かすことは、すべての人が知っていることであるが、これを実行できる人はいない(道徳経:第78章)。(p112)

これだけでは分からない。「柔弱」を説明するためには「勢」と「形」の理解が必要だ。

「柔弱」と「勢」と「形」

老子』を戦略書として読む場合の「柔弱」とは何か?

ユアン氏は『老子』の「反」の理論と「柔弱」と『孫子』の「勢」と「形」が関連していることを書いている。

「形」「勢」を簡単に書くと

  • 「形」は適切な状況を作り出すことであり、
  • 「勢」はつくり出される戦略的優位のことだ。(p106)

つまり上述の「位置エネルギー」を形成された状態が「形」で
位置エネルギー」が「運動エネルギー」へ転換された運動・勢いのことを指している。

しかし、「弱者が強者に対して勝利するための方法」を課題とする『老子』の編集者たちに重大な問題が発生する。

もしアクター自身が弱ければ、そもそも自らにとって好ましい状況[つまり「形」--引用者]がをつくり上げるための資源や力を初めから欠いていたり、効果を発揮するに足りる「勢」を貯めることができない、ということにもなりかねないからだ。そのため、『道徳経』の著者たちは、まずこの問題を解決する必要に迫られたのである。(p113)

そこで編み出した答えが、「反」の理論であり、「柔弱」だった。

つまりは、こちらが自ら「勢」「形」を作り出すのではなく、敵をコントロールして敵 自ら破滅する道に向かわせるように仕向けることだ。

この考えは基本的には『孫子』の詭道と同じだ。ただし「道」(=法則・基準)の考えを使って以下のように掘り下げている。

弱者が常に「勢」を活用できるわけではないという事実に気づいた老子は、流れ落ちる水のように、意図的につくり出す必要がなく、自動的に継続して発展する「自然の勢い」というものがあるとしている。この自然の勢いは、その傾向をさらに助長させることによって促進できるという。たとえば孫子は「怒りたけっているものは撹乱し、謙虚なものは驕りたかぶらせ」と述べているが、軍事的な面から言えば、勝利の条件が整ったとしても、それを実現するためにはやはり軍隊を戦わせる必要が出てくる。ところが老子は、「自然の勢いはある頂点に達すると逆戻りする」という考えから、敵の自滅を待つことを提案している。

活気に満ちたものにも、その衰えのときがある。これ(粗暴)は「道」に反することとよばれる。「道」に反することは、すぎに終わってしまう(道徳経:第30章)。

武器があまりに強(かた)ければ勝つことがないであろうし、強(かた)い質の木は折れる(道徳経:第76章)。

この文は、老子の「反」の理論を構成している。つまり「あともどりするのが『道』の動き方である。弱さが『道』のはたらきである」(道徳経:第40章)ということだ。この柔らかさが重要なのは、これによって成熟したり極限に至って「反転」してしまうことを阻止し、敵に柔軟性において勝るチャンスを大きくするからだ。(p114)

「道」から大きく逸脱するものは、反作用によって破滅する。これが「反」の理論。

そして柔らかさ(柔弱)が重要なのは、《これによって成熟したり極限に至って「反転」してしまうことを阻止し、敵に柔軟性において勝るチャンスを大きくするからだ。》

つまり敵を(基準(=道)から大きく逸脱させるほど)堅強にさせることによって破滅させる一方で、自分はそれを自重して柔弱に保って破滅しないように心がけることだ。

人々は強くなることや堅くすることにポジティブな価値を置くが、行き過ぎれば それは破滅を招く。これは『老子』の「足るを知る」(第33章)や「無為」(第63章)に通じる考え方だ。

「反」の理論と「無為」と「有為」

以前の記事で《老子(「無為」について①--「無為」と「有為」の境界)》というものがある。

そこで書いたことは簡単に言えば、「有為」とは「大きな事業(大難事)に取り組むこと」、「無為」には「小事」もカウントされる。

「有為」すなわち大事業は政治行政にとっては普段の公務(=道)から逸脱するものであり、庶民にとっては日常(=道)から大きく逸脱するものである。よって「反」の理論が働き、破滅する可能性が高くなる。

聖人(「道」を体得した為政者)が「無為」に徹するのは、「有為」をした結果 「反」の理論が働いて破滅する(あるいは敵国に破滅するように仕向けられる)ことを避けるためだ。

第63章の一部。

[書き下し文]
難(かた)きをその易(やす)きに図り、大をその細(さい)に為す。
天下の難きは易きより作り、天下の大はその細より作る。
是を以って聖人は終(つい)に大を為さず、故に能くその大を成す。
それ軽諾は必ず信寡(すくな)く、易きこと多ければ必ず難きこと多し。
是を以って聖人は猶(なお)これを難しとす。
故に終に難きことなし。[中略]

[現代語訳]
いかなる困難も容易なことから生じ、いかなる大事も些細なことから始まる。
「道」を体得した人物は、はじめから大事を成し遂げようとしない。
だから成し遂げることができるのだ。
そもそも安請け合いは不信のもと、容易なことには困難がつきまとう。
「道」を体得した人物は、どんな容易なことでも困難を覚悟してかかる。
だから、壁に突き当たることもない。

出典:守屋洋守屋洋/世界最高の人生哲学 老子/SBクリエイティブ/2016/p152-153

「難き」「大」が「有為」で、「易き」「細」が「無為」。

「有為」を為せば「反」の理論が待ち構えているので、慎重のもとに「無為」に徹する。

その結果、壁に突き当たることなく大事を成すことができる。これが『老子』の考え方である。



道家(12)老子(戦略書としての『老子』②--『孫子』の「詭道」の考えの採用)

前回からの続き。

真説 - 孫子 (単行本)

真説 - 孫子 (単行本)

さて、中国戦略思想の歴史の流れの中で、『孫子』の後に残された課題を『老子』が受け継いで完成させた。

その課題は以下の通り。

  • 非軍事的なもの。ただし完全に政治志向のものである必要はなく、少なくとも政治的な観点から人間の闘争(戦争や戦いに限定しない)を考えるものであればよかった。
  • 戦略の一般理論ではなくとも、弱者が強者に対して勝利を達成できるようにするための、特定のスキームを与えられる新しいパラダイム*1

この課題をやり遂げるために『老子』が『孫子』の考え方を採用している。

まず「詭道」の方から書いていこう。

中国の戦略的弁証法システムの土台を形成している「詭道」だが、『孫子兵法』の最初の章(第一 計篇)において、大きく分けて三つの「詭道」のセットがあることが記されている。

第一のセット:
戦争とは、詭道つまり敵の意表をつくことをならいとする。
だから、じゅうぶんの力があってもないようにみせかけ、
兵を動かしていても動いていないように見せかけ、
近づいていても遠くにいるようにみせかけ、
遠ざかっていても近くにいるようにみせかけるのである。

第二のセット:
利にさといものには誘いの手をのばし、
混乱しているものは一気に奪い取り、
充実しているものにはこちらも備え、
強いものは避け、

第三のセット:
怒りたけっているものは撹乱し、
謙虚なものは驕りたかぶらせ、
安楽にしているものは披露させ、
団結しているものは分裂させる

[中略]

詭道は単なる「欺瞞」だけの話ではない。第一セットから第二、第三セットに進むに従って、それがいわゆる「戦略的操作」的なものになっていくことがわかる。第一セットが単独で使われたとしても、その目的が単に騙したり誤解させたりすることだけにとどまらないことは明白だ。むしろ詭道は、敵を操作したりコントロールするという高い目標を狙っている。

出典:デレク・ユアン/真説 孫子中央公論新社/2016(原著は2014年出版)/p98

孫子』の冒頭に「兵は詭道なり」と書いているように、孫子の主張するところは「敵を操作したりコントロール」して最終的には破滅させることだ。

(このことについては記事「兵家(7)孫子(『孫子』と中国人社会の関係) - 歴史の世界を綴る」に書いた。)

さてここで2つの「課題」の話を思い出そう。

老子』の編集者たちが「課題」に取り組む時、『孫子』の詭道の考えを採用した。

(下の引用における「タオイスト」は道家を指す。)

右で説明した孫子の詭道の第三セットは、実質的に陰陽の作用や、弱者が強者に勝つことを狙う上で最も適した方策を示しているため、タオイストたちが一番注目していた手段であったことは当然と言える。詭道の活用については、タオイストの戦略のエッセンスを捉えた以下の文でも明らかである。

(あるものを)収縮させようと思えば、まず張りつめておかなければならない。弱めようと思えば、まず強めておかなければならない。衰えさせようと思えば、まず勢いよくさせておかなければならない。奪いとろうと思えば、まず与えておかなければならない。これが「明(ひかり)を微(かす)かにすること」とよばれる(道徳経:第36章)。

この訳からわかるのは、方策(スキーム)を意図的(「計画的」)に練ることができ、これが戦略や計略の土台になるということだ。これによって弱者が強者に勝つための土台を形成するのが可能となり、「柔弱は剛強に勝つ」という言葉につながる。タオイストたちはこの論理(ロジック)を、自然を参考にしながら説明している。

活気に満ちたものにも、その衰えのときがある。これ(粗暴)は「道」に反することとよばれる。「道」に反することは、すぐに終わってしまう(道徳経:第30章)。

フランソワ・ジュリアンによれば、中国の思想家たちは「不可避の結果」なるものを強調してきたという。彼らの考えの中では、勝利は強制や行動ではなく、必然的な流れを通じて獲得されるべきであったからだ。戦略家にとって最も重要な任務の一つが、情勢の勢いを増加させることによって自然な流れを促すことであり、必然の力によって敵が破滅に向かうのを助けるということだ。

出典:ユアン氏/p101-102

上のように『老子』が『孫子』から「詭道」の考えを採用したことは明らかだ。

ただし、ユアン氏によれば、『老子』の編集者は「詭道」の考えを発展させて「反」の理論を作り出して同様の主張をしている。

「反」の理論については次の記事で書こう。



*1:デレク・ユアン/真説 孫子中央公論新社/2016(原著は2014年出版)/p91