歴史の世界

道家(4)老子(「道」とはなにか)

以前にも書いたが、『老子』は『道徳経』とも呼ばれる。この「道徳」は倫理的な意味のそれではなく、以下の理由により名付けられた。

老子道徳経』は5千数百字(伝本によって若干の違いがある)からなる。全体は上下2篇に分かれ、上篇(道経)は「道の道とすべきは常の道に非ず(道可道、非常道)」、下篇(徳経)は「上徳は徳とせず、是を以て徳有り(上徳不徳、是以有徳)」で始まる。『道徳経』の書名は上下篇の最初の文句のうちからもっとも重要な字をとったもの。

出典:老子道徳経 - Wikipedia

倫理的な意味の、つまり私たちが一般的に使っている意味での「道徳」は儒教で使われる意味のそれだろう。これに対し『老子』の「道・徳」は違う意味で使われている。今回は「道」。

儒家と『老子』の「道」

老子』の中の「道」の説明ではよく分からないので、まず道家儒家の「道」の比較について引用する。

老子』の思想の最大の特色は、道を宇宙の本体にして根源であるとした点である。通常、思想家が説く道は、人言が歩むべき正しい進路を意味する。ところが『老子』の場合は、道は天地・万物を生み出す創造主なのである。[中略]

さらに道は、……中国世界の人々が宇宙の絶対神と崇める上帝(上天)にさえ先行して存在したとされる。とすればまさしく道こそが、真に宇宙の始源だということになる。

出典:浅野裕一/雑学 諸子百家/ナツメ社/2007/p158

もう一つ引用。

中国思想では、人生論あるいは政治論での規範・模範としての意味と、宇宙論あるいは生成論での存在根拠、存在の法則としての意味との、両者を含む概念である。原始儒家(じゅか)では、「道」「先王之道」「聖人之道」「人道」などのことばを使い、その内容は仁、仁義、礼義など倫理的、政治的規範や理想の意味をもつものであった。これに対して道家(どうか)での道は、感覚的にはとらえられないが実体としては存在し、万物を生み出す根源であると同時に万物に内在してそれぞれの働きをなさしめるという、万物の根源、宇宙の究極者としての存在である。こうした道についての叙述は『老子』に始まり、『荘子』を経て漢(かん)初の『淮南子(えなんじ)』原道篇(へん)に至って完成する。道家はこうした道を模範として人もまた行為すべきだと考える。儒家はいわゆる道徳的、政治的規範としての道は説いたが、実体としての道は説かず、その点で独自な道を説いたこの学派は道家とよばれることとなった。

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)<道(思想)(どう)とは - コトバンク

老子』あるいは道家の「道」は、他の思想と比べても特殊であることが分かったが、上の説明だけでは これがどのように思想に結びついているのか分からない。

なので、さらに引用を続ける。

儒学でいう「道徳」の中心は「道」である。そこでは「道」が「為すべきこと」であって、「徳」はそれを担う品性という二次的な意味となり、「道徳」という言葉は「為すべきこと」=規範そのものに近い意味に成る。それは「仁」であり、「礼」という外面的な規律に表現される。これに対して、老子のいう「道徳」では、「道」は、そのような規範ではなく、この世界の運動を規定する目に見えない法則・本質であり、「徳」はその本質の用(はたら)きであり、勢いである。[以下略]

出典:保立道久/現代語訳 老子ちくま新書/2018/p229

現代語訳 老子 (ちくま新書)

現代語訳 老子 (ちくま新書)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2018/08/06
  • メディア: 新書

  • 「徳」については別の記事で改めて書く。

保立氏は、儒家の「道」は規範であり、『老子』の「道」は本質=法則であると説明している(引用文の後の文ではシステムでもあると説明している)。

以下で今度は『老子』の「道」に絞って話を進める。

「道」と「聖人」

保立氏の「道」を別の箇所でも解説しているので引用しておこう。

老子は、「道」とは人や物体の移動にともなる目に見えない幾何学的な秩序のようなものだといっているのである。念のために説明すれば、「道」がそういう意味をもって哲学の用語になっていくのはギリシャでも同じである。ギリシャ語では「道」は hodos (ホドス)というが、それに「沿って」という意味の meta (メタ)がつくと methodos になる。つまり英語の method 、メソッド=方法である。世界を通っている道に沿っていくというのは、世界の法則を知ることであり、それが方法であるというのは、老子の「道」と極めてよく似ている。これは現代哲学の言い方でいえば、現象を分析して得られる概念にはみえないが、それは実在する本質を反映しており、実在世界を解析する「方法」ともなるということであろう。

つまり、たとえば万有引力の法則を考えればすぐわかるように、天地・自然の森羅万象をつらぬく諸法則は人間が分析して初めて認識できるのであって、それ自体としてはすべて「不可視・不可聴・不可触」である。また社会科学の対象とする、人間と人間の社会関係も実際には分析して初めて理解できることであって五感ではとらえられない。[中略]

この「道」は、自然についてもいわれ社会についてもいわれる。精神的であると同時に客観的あるいは物質的であるような言葉で、いわゆる観念論でも唯物論実在論)でもない。それ故に、なかなか定義しにくいのであるが、そういうものをまとめて、老子は「道」といい、あたかも巨象にどっしりとのっているような気持ちになって、その見えない道にしたがっていけば、我々は自由だというのである

出典:保立氏/p32(太字修飾は引用者)

これを読むと『老子』の語る「道」は儒家の語るそれよりも科学的なものと思える。

しかし、その科学的な「道」に「したがっていけば、我々は自由だというのである」とはどういうことなのか?

また引用。

老子』によると、「道」とは万物を成り立たせている根源の存在であるが、それほど大きい働きをしておりながら、自分はというと、いつもしんと静まりかえっている。目で見ることもできないし、耳で聞くこともできない。「無」としか言いようのないものだが、たしかにそんざいしているものだという。

そしてこの「道」は、自分の働きや功績を誇示しない謙虚さ、どんな事態にも自在に対応できる柔軟性、さらには無為、無心、無欲、質朴、控えめなど、素晴らしい徳をいくつも体現している。

私ども人間も、「道」の持っているこのような徳を身につけることができれば、この厳しい現実を、たくましく、しなやかに生き抜いていくことができるのだと主張する

出典:守屋洋/世界最高の人生哲学 老子/SBクリエイティブ/2016/p2

上の本は『老子』の一部を一般人の人生に役立てるための啓発書なので、「私ども人間」つまり一般人である私たちに『老子』が語りかけているとしている。しかし、保立氏は「『老子』は、まずは「王と士の書」として読むべきものであろう」としている*1

話は逸れるが「士」について。

春秋戦国時代における「士」について、保立氏は次のように書いている。

「士」とは、中国の春秋戦国時代に王や卿・大夫といわれた上級貴族の下にいた、中下級の氏族の長(おさ)、地主や官吏の身分をいう。彼らは徐々に地位を上昇させて文武の職能をもって統治の責任をとる身分として確立した。

出典:保立氏/p228

つまり老子』は「王と士の書」だということは、為政者の教訓・心得または「為政者はこうあるべきだ」ということを表した書だということができる。 上の引用を借りて短絡的に言えば、『老子』の為政者の理想像は、たとえば「無為、無心、無欲、質朴、控えめなど、素晴らしい徳をいくつも体現している」者ということになる。

そして「道」を体得した者、「道」に従う者を『老子』では「聖人」という。「聖人」の他に「有道者」・「有道の士」という言い方もしている。

これらは儒家の言うところの「道」を体得した「君子」とだいたい同じだ。*2

さて、話が逸れてしまったようだが、実はそれほど逸れていない。

まとめに入る。

「道」の徳(性質)を語る章

最後に、「道」の徳(性質)を語る章を引用。

「『道』とは大きなものだが、どこかバカげている」、人々は口をそろえてこう語る。

だが、バカげているから大きいのである。そうでなかったら、とっくに消えてなくなっていたにちがいない。

この「道」、すなわちわたしは、三つの宝を持っている。

第一は、一を慈しむこと。第二は切り詰めること。第三は、人々の先頭に立たないことである。人々を慈しむからこそ、勇気が湧いてくる。生活を切り詰めるからこそ、困っている人に施すことができる。人々の先頭に立たないからこそ、逆に指導者としてかつがれるのである。

慈しむ心を忘れて勇気だけを誇示し、生活を切り詰めもしないで施そうとし、退くことを忘れて先頭に立つことだけ考えたら、どうなるか。破滅あるのみだ。

慈しみの心を持った者は、戦えば必ず勝ち、守ればつけ入る隙を与えない。慈しみの心とは、万物を人する天の心でもある。(67章)

出典:守屋氏/p123-124

まとめ

以上の引用を簡単にまとめると、『老子』は為政者に対して「道のようになれ」と言っているわけだ。そして「道というのはすごいんだぞ」とも言っている(「道」=造物主←天帝よりも上)。

結局のところ、『老子』を為政者の教訓・心得として読めば、一番重要なのは「道」の徳(無為、無心、無欲、質朴、控えめなど)であって、造物主であることなど二次的なものに過ぎない。

というわけで、「道」=造物主というのは、『老子』を書いた道家一派が「道」が如何にすごいかを語るときに天帝よりすごいとまで言ってしまった結果がこれなのではないか、と思えてならない。

そんなわけで、とりあえず「道」の正体については「ふーん」と思うくらいに斜め読みして、「道」の徳の方を重要視したほうがいいのではないか、というのが私個人の意見だ。



*1:保立氏/p13

*2:保立氏/p238-239