歴史の世界

道家(17)老子(『老子』の有名な言葉  後編)

前回の続き。

上善如水

第8章の一部。

[書き下し文]
上善は水の如し。
水は善く万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に居(お)る。
故に道に幾(ちか)し。

[現代語訳]
一体、最上の善は、水に譬えられる。
水というものは、万物に優れた恵みをもたらすだけであって、勝ちを求めて他と争おうとせず、大衆の嫌がる低い地位に安住している。
だからこそ、道に近い存在なのだ。

出典:書き下し文:守屋洋守屋洋/世界最高の人生哲学 老子/SBクリエイティブ/2016/p24
現代語訳:池田知久/『老子』その思想を読み尽くす/講談社学術文庫/2017/p776

上の言葉は「人と争ず、謙虚であれ。そうすれば道の体得に一歩近づけるだろう」くらいの解釈でいいだろうか。

ただし『老子』は「道」を体得しようとする為政者たちを対象とする書なので、ただ単に謙虚になって「道」を極めようと言ってるわけではない。

第66章(の一部)は以下のように書いてある。

[現代語訳のみ]
「道」を体得した人物は、国民を統治しようとするとき、謙虚な態度でへりくだる。国民を指導しようとするときには、自分は後ろに退いて、いっこうに指導者ぶらない。
だから、上に座っていても、国民は重いとは感じないし、先に立っていても、邪魔だとは感じない。このように、国民から喜んで迎えられるのは、才能や功績を競おうとしないからだ。だから国民はおのずと帰服するのである。

出典:守屋氏/p277

要するに、為政者が国民・庶民に帰服されたいのなら謙虚であれ、ということだ。

学絶てば憂い無し

第20章から。

[書き下し文]
学を絶てば憂い無し。
唯(い)と訶(か)とは、其の相い去ること幾何(いくばく)ぞ。
美と悪とは、其の相去ること何若(いかん)。

[現代語訳]
およそ学問さえ捨ててしまえば、我々の抱く悩みはなくなる。
学問によって教えられる、ハイという返辞とコラという怒鳴り声とは、そもそもどれほどの違いがあろうか。
うつくしいものと醜いものとは、一体、どれほどの隔たりがあろうか。

出典:池田氏/p789-790

上のように学問を否定しているのだが、この第20章の後半には「道」について長々と書いている。

これは、池田氏によれば、《『老子』における「学」の肯定は、「道」とその同類を捉える「学」の場合だけに限って認められる》 *1とある。

要するに道家以外の学問は学ぶなということだろう。

そして第48章の一部に以下のようにある。

[読み下し文]
学を為す者は日に益し、道を開くものは損す。
之を損し又た損して、以て為す無きに至る。
為す無くして為さざる無し。

[現代語訳]
そもそも学問をおさめる者は、日に日に外部から知識・倫理を取り入れて益していくが、
逆に、根源の道を為(おさ)める者は、日に日に内面から夾雑物を捨て去って減らしていく。
減らした上にもさらに減らしていくと、ついに一切の人為を捨て去った無為の境地に達するであろう。

出典:池田氏/p821

道家以外の学問を《日に日に外部から知識・倫理》《夾雑物》としている。道家の先生からすれば、道家以外の、善悪などの倫理道徳や、美醜などの価値基準は、邪魔なもの、求道者を阻害するものでしか無いということになるだろう。

足るを知る

第44章から。

[書き下し文]
足るを知れば辱められず、
止(とど)まるを知れば殆(あや)うからず。
以って長久なるべし。

[現代語訳]
足ることを心得ていれば、辱めを受けない。
止まることを心得ていれば、危険はない。
いつも安らかに暮らすことができる。

出典:守屋氏/p54

老子』の中の長寿の方法論の一部第33章も同様の内容。

「やりすぎは身を滅ぼす」は『老子』の中核を為す考え方で、これを長寿の方法論に当てたのが上の章だ。

和光同塵

第4章から。

[書き下し文]
道は冲(ちゅう)なれども、これを用(もち)うれば、盈(み)たざるあり。
淵として万物の宗に似たり。
その鋭なるを挫き、その粉を解き、
その光を和らげ、その塵(ちり)に同(おな)じうす。
湛(たん)として存する或るに似たり。[中略]

[現代語訳]
道は、形のない空虚な存在であるが、その働きは無限である。
計り知れない深さのなかに、万物を生み出す力を秘めているかのようだ。
とげとげしさを消し去って対立を解消し、
才知を包み込んで世俗と同調している。
道は、しんと静まりかえっているが、たしかに存在している。[中略]

[解説]
「和光」──光を和らぐとは、自分の持っている光、つまり才知や才能をギラギラ光らせない、見せびらかさないということ。また、「同塵」──「塵に同じうす」とは、世俗と同調し、高ぶったり、偉ぶったりしないという意味である。

出典:守屋氏/p42

老子』の書かれた時代、書を読める人は支配者階級の一部に過ぎなかった。「光」の比喩の中には家格や地位も含まれるだろう。

和光同塵」をモットーに振る舞えば庶民は「おのずと帰服」しますよ、逆に、自分の地位・才覚を笠に着て偉ぶるような振る舞いをすれば、身を滅ぼしますよ、という意味。

柔よく剛を制す

[書き下し文]
天下に水より柔弱なるはなし。
而して堅強を攻むるはこれに能く先んずるなし。
その以ってこれを易(か)うることなきを以ってなり。
柔の剛に勝ち、弱の強に勝つは、天下知らざるなきも、これを能く行うものなし。[中略]

[現代語訳]
この世の中で、水ほど弱いものはない。
そのくせ、強いものにうち勝つこと水に優るものはない。
それは他でもない、弱さに徹しているからである。
柔は剛に勝ち、弱は強に勝つ。この道理を知らないものはいないが、よく実行している者はいない。

出典:守屋氏/p29

柔弱については、 《道家(13)老子(戦略書としての『老子』③--「反」の理論)》 で書いた。

常に剛強であろうとすれば、それが立ち行かなくなった時に反動が大きく、結果として身を滅ぼすことになりかねない。例えば川に剛強な堤防を造ったとして、その堤防が決壊したときの川の流れは村を滅ぼすほどの威力がある。

一方、常に柔弱な者はそのような反動を心配する必要がない。

また、柔弱な者が剛強な者に勝とうとするならば、剛強な者にさらに剛強になるように誘導して、最終的に身を滅ぼすように仕向ける、という方法がある。

世界最高の人生哲学 老子

世界最高の人生哲学 老子



*1:池田氏/p254