この記事では、書物の『老子』を二重括弧で表記し、人物の老子は括弧無しで表記する。
書物の『老子』は『道徳経』と表記されることもある。wikipediaでは『老子道徳経』という表記を採用している *1。
この記事では、『老子』の内容についてまとめる。
『老子』の著者と成立時期については、記事 《道家(2)老子(著者と成立時期)》 参照。
『老子』の読者は支配者層
『孫子』など古典の多くは、支配者層に読ませるために著された。『老子』も同様だ。
現在 日本で出版されている『老子』に関する本は啓発書に近い。日常をどのように豊かに暮らすかについてのヒントとして『老子』を扱っている。
こういった解釈は、『孫子』をビジネス書として読んでいるのと同様に応用の類であって、本当の解釈とは異なる。
本当の解釈は、簡単に言えば「支配者は如何にあるべきか」というものだ。
「道」について
道家の概念の中核と言われている「道」。
「道」については『老子』の解説本に難しく書いてあるが、ここでは簡単に言ってしまおう。
『老子』における「道」は、一神教における造物主=神に近い。もちろん違いはあるが、重要な点は「道」は万物を造り、そして支配しているところだ。だから社会のシステム、秩序、慣習や日常も「道」の一部だ。
この「道」を体得した為政者は『老子』の中では聖人と呼ばれ、優れた為政者とされる。
(道家(4)老子(「道」とはなにか) 参照)
「無為自然」
『老子』を説明する時、「無為自然」は「道」の次に重要なキーワードらしい。
無為自然
作為がなく、自然のままであること。「無為」「自然」は共に「老子」にみられる語で、老子は、ことさらに知や欲をはたらかせず、自然に生きることをよしとした。
上の説明では、「だからなに?」と思うしか無い。
「無為」というのは「作為」の反対のこと、すなわち「有為」。
有為=作為とは『老子』の中では大事すなわち普段とは違う大きな行為を指す。そして有為の反対の無為は普段やっているような小さな行為を指す。だから無為は何もやっていないという意味ではない。
大事業などの大きな行為は大きなリスクを伴うことは誰もが認めるところだろう。『老子』はそのリスクを嫌い、有為をすべきではないという。
では大事業をしなければいけない時はどうするかというと、小さな行為をコツコツと積み上げていって成し遂げよと言っている。そんなことをしたら膨大な時間がかかって手遅れになってしまうと思うのだが、そういった時間の要素は『老子』は考慮に入れていない。
(道家(4)老子(「道」とはなにか) 参照)
もう一つ、「無為自然」の「自然」とは何かについて。
『老子』で使われている「自然」は、デジタル大辞泉の「自然のままであること」ではなく、「みずから」とか「自律的に」という意味。
第17章を例に挙げる。
[現代語訳]
〔統治者が〕ぼんやりとして一切の言葉を忘れてしまうならば、それが原因となって、人々は功績を挙げ事業を成し遂げる結果を得るが、しかし彼らはこれを自分たちで成し遂げたものと考えるのだ。
- 「貴」の解釈は、他では「貴ぶ」としているところが多いが、池田氏によれば「貴」=「遺」=「忘れる、捨てる」としている。こちらのほうが意味が通じていると思う。
「無為自然」の意味は《為政者が「無為の政治」をすることによって、人民が自律的に行動する(そして良く治まる)》となる。
(道家(10)老子(「無為自然」と政治) - 歴史の世界を綴る 参照)
戦略書としての『老子』
日本では『老子』は啓発書として紹介されることが多いが、デレク・ユアン氏によれば、中国では戦略書と見なされることが多いという。 *2
『老子』第57章の一部を引用。
[現代語訳のみ]
国家を統治するには、正直にする。戦いを行うには、人をだます。しかし、天下を勝ち取るのは、手出しをしないことによってである。
「人をだます」とあるが、これは『孫子』の詭道のことだ。ユアン氏によれば、『老子』の編纂者たちは『孫子』の考えの一部を取り入れたといういうことだ。
『孫子』は軍事戦略の傾向が強いが、『老子』編纂者たちは『孫子』のエッセンスを応用して非軍事面の戦略へ拡大させた。そして中国戦略思想が完成した。
戦略書としての『老子』に関しては、記事 《道家(11)老子(戦略書としての『老子』①--『老子』は『孫子』の影響を受けている)》 などで書いた。