歴史の世界

道家(16)老子(『老子』の有名な言葉  前編)

老子』の中には、『老子』を知らない人でも知っている言葉が幾つかある。その中の幾つかの意味をここに書留めておく。

大国を治むるは小鮮を烹るが如し

第60章より。

[書き下し文]
大国を治むるは小鮮を烹るが若(ごと)し。
道を以って天下に莅(のぞ)めば、その鬼(き)、神(しん)ならず。
その鬼、神ならざるに非ず、その神、人を傷(やぶ)らず。
その神、人を傷らざるに非ず、聖人もまた人を傷らず。
それ両(ふた)つながら相傷らず、故に徳交(こもごも)帰す。[中略]

[現代語訳]
国を治めるのは小魚を煮るようなもの、やたら掻き回してはならない。
無為の「道」をもって天下を治めれば、鬼神も祟りを起こさなくなる。
いや、祟りを起こさないわけではない。祟りを起こしても、人に害を与えなくなるのだ。
鬼神が害を与えなくなるだけではない。為政者も害を与えなくなる。
鬼神も為政者も害を与えない。その結果、両者の徳が政治に反映されるのだ。[中略]

[解説]
老子』の政治哲学をずばり語っているのが、「大国を治むるは小鮮を烹るが若し」ということばである。

「小鮮」とは小魚のこと。小魚を煮るとき、やたら突いたり、掻き回したりすると、形も崩れるし、味も落ちてしまう。そろりそろりと煮るのがコツなのだという。国の政治もそれと同じこと。細かな所までうるさく干渉すれば、下からの活力を殺してしまい、はては無用な反発さえ招きかねない。肝心な所だけおさえておいて、あとは民間の活力に任せたほうがうまくいくのだという。

出典:守屋洋守屋洋/世界最高の人生哲学 老子/SBクリエイティブ/2016/p220-221

「大国を治むるは小鮮を烹るが若し」は『老子』の政治哲学、すなわち「無為の政治」だ。

「無為」は「何もしない」ということではなく、「よけいなことをしない」くらいの意味。

「無為の政治」については記事 《道家(9)老子(「無為」について③--「無為」と政治)》 に書いた。

「無為」については 《道家(7)老子(「無為」について①--「無為」と「有為」の境界)》。

天網恢恢疎にして失わず

第73章より。

[書き下し文]
敢(あえ)てするに勇なれば則ち殺し、敢てせざるに勇なれば則ち活(い)く。
この両者は或(あるい)は利 或は害。
天の悪(にく)む所、孰(たれ)かその故をしらんや。
天の道は戦わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、召(まね)かずして自(おのずか)ら来たり、繟(せん)として善く謀る。
天網は恢恢(かいかい)、疎にして失わず。

[現代語訳]
およそ人為を行おうとして勇気を振る舞う者は殺され、反対に無為を行おうとして、勇気を振る舞う者は生き延びる。
この両者は、確かに一方は利であり他方は害であって、異なるように見えるけれども、根源者たる天はどちらもともに嫌うのだ。誰にその理由が分かるであろうか。
一体、天の道は、およそ人間の勇気などとは縁もゆかりもないものであって、戦争を仕掛けるまでもなく立派に相手に勝ち、言葉を用いるまでもなくきちんと相手に応対でき、呼び寄せるまでもなく相手が自らやって来て、静かに構えていながらうまく策謀をめぐらすことができる、という働きを備えている。
人類全体を上から覆う天の網は広大無辺であって、その目は粗いけれども何一つ見逃すことはないのだ。

出典:書き下し文:守屋氏/p166-167
現代語訳:池田知久/『老子』その思想を読み尽くす/講談社学術文庫/2017/p848

「天網恢恢疎にして失わず」は「天罰は決して見逃されることはない」のような意味とされている。「天網恢恢疎にして漏らさず」でも同じ意味。

だがしかし、出典元の『老子』第73章では、どうもその意味で書かれていないようだ。

第73章を見ていこう。

第73章は「勇」と「天の道」について書かれている。

前半で書かれた2つの「勇」について、「天の道」は「縁もゆかりもないもの」と切り捨てている。後半で書いてあることは「無為の政治」すなわち『老子』の理想の政治環境を表している。

そして最後に書かれた「天網恢恢疎にして失わず」は、「無為の政治」に掛かっている。

つまり「その目は粗いけれども何一つ見逃すことはない」とは、法家が作る息詰まるような政治・社会ではなく、無駄なことはせずに急所だけを押さえて何も見逃さない政治・社会が『老子』の理想の政治環境だということになる。

つまりは「小鮮を烹る」ような政治だ。

小国寡民

第80章より。

[書き下し文]
小邦寡民、十百人の器あれども用(もち)うることなからしむ。
民をして死を重んじて徙(うつ)るに遠ざからしむ。
舟車あれどもこれに乗ずる所なく、甲兵あれどもこれを陣する所なし。
民をして復(また)縄を結びてこれを用いしむ。
その食を甘しとし、その服を美とし、その俗を楽しみ、その居に安んず。
隣邦相望み、鶏犬の声相聞こえ、民、老死に至るまで相往来せず。

[現代語訳]
どんな社会が理想なのか。人口も少ない。
文明の力に恵まれたとしても、人々は見向きもしない。
それぞれに人生を楽しみ、他所へ移ろうとしない。
舟や車があっても乗ろうとはしないし、武器はあっても手にとろうとはしない。
あえて読み書きを習おうともしない。
それぞれの生活に満足し、それぞれに生活を楽しんでいる。
鶏や犬の声が聞こえてくるようなすぐ近くに隣の国があっても、往来する気などさらさらにない。

 *縄を結ぶ 文字が作られる前の太古の時代、縄の結び目によって意思を伝えあったと言われる。

出典:守屋氏/p87

ここには引用しないが、守屋氏の解説では「小国寡民」を住民側から見た理想の桃源郷のように見立てていた。

しかし、池田知久氏は支配者側の理想だとしている。(池田氏/p483)

ここでは池田氏の説明を採用して以下に書く。

書き下し文に《なからしむ》《遠ざからしむ》とあるが原文では「~しむける」という使役の助動詞「使」が用いられている。よって「邦」の住民が自ら上のように行動しているというよりも、支配者(層)が彼らをそのように「しむけて」いることが分かる。

老子』の政治思想では、法によって住民を縛ることを良しとせず、住民をどうにかコントロールして支配者の理想(つまり「道」)に誘導することを良しとする。

井の中の蛙、大海を知らず」という言葉があるが、支配者が住民に「井の中」に居ることを満足させることができれば、支配者の理想は叶うのだろう。

『老子』 その思想を読み尽くす (講談社学術文庫)

『老子』 その思想を読み尽くす (講談社学術文庫)