著書の『老子』は本来は『道徳経』と呼ばれるものだが、ここでは一般に通じている『老子』で一貫する。
なお、このブログでは書物の老子は二重括弧で、人物の老子は括弧なしで表記する。
成立時期
『老子』(=『道徳経』)は春秋時代後期の老子(李耳・老聃-たん-)
が書いたものと一般に言われるが、実際のところ人物・老子の実在は確定とは程遠い。(著者については後述)
成立時期は諸説ある。
たとえば、浅野裕一氏 *1 は、前300年から50~60年は遡る、としている。
その根拠は、1993年に出土した『老子』の最古の出土資料である郭店楚簡 *2 だ。 この出土文献の時期は戦国中期・前300年前後のものと推定されている。『老子』関連の文献は『老子』の抄本(原本のある一部分を書き抜いたもの)が複数あるのだが、その抄本が別系統のものであったことから墓が作られた時期には既に『老子』が普及していると推測できるという。
もうひとつ、池田知久氏 *3 は、「戦国末期~前漢初期の数十年間をかけて成書・編纂し、一まずその原形を作り上げた」としている。
池田氏は郭店楚簡の『老子』は「形成途上」 *4 のものと判断している。
池田氏の説の根拠の一つは馬王堆漢墓(前2世紀)から出土した『老子』だ。この『老子』は2種類あるのだが、古い方のものを「原形が成った」として、新しい方はさらに筆写・編纂されているという。そしてさらに編纂は続けられて、現在の私達が読む形になったとしている。 *5
著者について
上に書いたとおり、古来より著者とされてきた老子の実在性は現在では疑われている。言い方を変えれば、老子の実在を証明するに足る文献は無い。
老子に言及する文献について、以下に引用する。
老子の履歴について論じられた最も古い言及は、歴史家・司馬遷(紀元前145年 - 紀元前86年)が紀元前100年頃に著した『史記』「老子韓非列伝」中にある、三つの話をまとめた箇所に見出される。[中略]
荘子(紀元前369年 - 紀元前286年と推定される)が著したという『荘子』の中には老聃という人物が登場し(例えば「内篇、徳充符篇」や外雑篇)、『老子道徳経』にある思想や文章を述べる。荀子(紀元前313年? - 紀元前238年?)も『荀子』天論編17にて老子の思想に触れ、「老子有見於詘,無見於信」(老子の思想は屈曲したところは見るべき点もあるが、まっすぐなところが見られない。)と批判的に述べている。さらに秦の呂不韋(? - 紀元前235年)が編纂した『呂氏春秋』不二編で「老耽貴柔」(老耽は柔を貴ぶ)老耽という思想家に触れている。貴公編では孔子に勝る無為の思想を持つ思想家として老耽を挙げ、その思想は王者の思想(至公)としている。
このような記述から窺える点は、老子もしくは老子に仮託される思想は少なくとも戦国時代末期には存在し、諸子百家内に知られていた可能性が大きい。しかし、例えば現代に伝わる『荘子』は荘子本人の言に近いといわれる内篇7と彼を後継した荘周学派による後に加えられたと考えられる外編15、雑篇11の形式で纏められているが、これは晋代の郭象(252年? - 312年[30])が定めた形式であり、内篇で老子に触れられていてもそれが確実に荘子の言とは断定できない。このように、諸子百家の記述に出現するからといって老子が生きた時代を定めることは出来ず、学会でも結論は得られていない。
出典:老子 - Wikipedia(太字修飾は引用者)
ただし、中国の学会(文献史学)では伝世文献(『史記』などの読み受け継がれきた漢籍)に書かれているものが無批判に資料とされているのが現状だそうで *7、 老子は実在の人物と認識されている。
『老子』の著者が、老子でなければ、老子(あるいは伝説上の老子)を祖とする道学系一派が編纂して成立させたということになる。
香港人である戦略学者のデレク・ユアン氏が中国の一説(?)を紹介しているところによれば、人物・老子が孫子に影響を与え『孫子』にその痕跡が残り、次に『孫子』を読んだ「老子系」一派が『老子』を書いて、その影響は『老子』の中に読み取れる、とのこと *8。
ユアン氏の本の中身については、別の記事で書く。