歴史の世界

道家(15)老子(戦略書としての『老子』⑤--中国の戦略思想──西洋との違い)

この記事では、中国の戦略思想を西洋のそれと比較して、その特徴を書いていく。

真説 - 孫子 (単行本)

真説 - 孫子 (単行本)

デレク・ユアン氏はイギリスのレディング大学で戦略学の泰斗であるコリン・グレイ氏の下で博士号を取得している。

ユアン氏は香港人だが、この原著がロンドンで出版されているので、対象読者はイギリス人(アメリカでも出版されている)。

原著の目的の一つとして、曰く「西洋における中国の戦略の理解促進に大きな役割を果たすことを目的としている。」(p10)

「戦略」

端的に言えば、戦略とは「望ましい結果を達成するために選択されれた方法や手段によって構成された、指示やその使用」と定義できる。この簡潔な定義が暗示しているのは、特定の手段の使用によって望ましい目標を達成する、ということだ。言い換えれば、これは暗黙的に「手段と目的の枠組み」を含んでいる。これこそが西洋の伝統的な戦略観である。

出典:デレク・ユアン/真説 孫子中央公論新社/2016(原著は2014年出版)/p105

デレク氏は、上の「手段と目的の枠組み」に加えて合理性も西洋の伝統的な戦略観の一つとしている。

そしてこの本では、西洋の戦略思想における行動方針を「手段目的・合理性アプローチ」と名付けている。(p105)

これに対して中国のそれには「状況・帰結アプローチ」と名付けている。(p105)

「状況・帰結アプローチ」とはどういうものかと言うと、「帰結」すなわち最終目的を実現させるために、あらかじめ状況を確立しておく(p108)、ということ。「状況」とは『孫子』の言うところの「形」であり、「形」とは「適切な状況を作り出すこと」だ。

ここで重要なことは、敵を自陣に有利な「形」に誘導することで、自陣は逆のことをされないことだ。そのためには、敵の状況を把握し、自陣の状況を把握されないことが基本となる。

西洋の戦略と比較して際立つのは、中国のそれは最終目的に直接に働きかけることを避けて、好ましい状況を作り出すことを最優先することだ。(p106-107)

「状況・帰結アプローチ」のもう一つの特徴は、「現実は常に変化している」という「世界観」の下に戦略を立てて行動していることだ。

以下の引用では西洋と比較して説明している。

タオイスト[『老子』の編集者たち──引用者]の世界観は、戦争と戦略にとって重要な暗示を含んでいる。戦いの決定的な性質は、戦争の現実と、抽象的な理論モデルとの間に必然的に存在するその距離感にあるからだ。戦いのエッセンスは、そのモデルを裏切るところにある。戦争や戦いに関する理論の形成が極めて難しいのはまさにここにあり、これまでのほとんどの理論は、理論と実践の間のギャップを超えることができていない。西洋にとってこの弱点は、とりわけ大きな問題となる。これはプラトンにまでさかのぼる、しっかりと定義された明確なパターンに注目する、西洋の伝統だからだ。西洋ではあらかじめ設定した計画なしでは戦争を考えないものであるが、そうなるとその計画は、変化する状況と必然的に衝突することになる。この二つの問題は、まさに老子がタオイストの世界観──道は無形であり現実は常に変化している──を導入することによって、指摘・解決しようとしたものなのだ。戦いの分野では、すでに長年認識されてきたものであるように、一つのことに固執するというものほど危険なものはない。つまりあらゆる可能性を秘めた状況の変化に対して、行為者が柔軟に対応しようとするのを妨げるようなルールや命令を設定することほど、最悪のものはないということだ。タオイストは道という概念を採用することによって状況の変化にも対応できるようになったのであり、これによって、あらゆるモデルに取って代わる力を秘めた「変動モデル」への第一歩となったのだ。(p119-120)

孫子』の計篇にあるように *1、 中国の戦略思想において、当初の計画を立てないわけではない。

ただし、中国の将軍たちは あえて計画を詰めることはせずに、「状況の進展から最大限の有利を引き出そうとし続ける」。(p110)

重要なのは「現実は常に変化している」という世界観のもとに「一つのことに固執する」ことから脱却できることだ。

「後発制人」

「後発制人」は「敵が攻撃した後に攻撃を開始することによって主導権を握る」というもの。

西洋の「先制」的な概念とは大きく異なり、西洋の人々にとって分かりづらいものとなりやすいという。(p121)

「後発制人」は日本で言うところの「後の先」と言えるだろうか。 *2 「後の先」といえば、ボクシングなどのスポーツや将棋で使われる用語として知っている人も少なくないだろう。ボクシングで言えばカウンターパンチ。将棋で言えば、まず自分の有利な状況を作り出して相手に手を渡して仕掛けさせた後に反撃するというもの。

ただし相手に先制させた上で勝つためには、相手を状況(すなわち「形」)を把握していることが前提となる。

ところが勝利に必要な状況をつくったり、敵の「形」を把握するまでには時間がかかるものであり、それを無理やり行うことはできない。だからこそ孫子は「勝利はわかっていても、正気を無理につくり出すことはできない」と述べたのだ。言い換えれば、攻撃を行う前に、敵が「形」、そして弱点を暴露するまで待つべきであるということになる。[中略]

「様子見」は、状況・帰結アプローチにとって不可欠なものであり、これは中国の戦略思想において積極的な目的を持っていることになる。あらかじめ決められた帰結を実現させるためには、状況が発展してきて機が熟すまでの時間が必要だからだ。将軍は決定された状況の流れを様子見する(先の状況を見越してそれが有利になるのを待つ)ことができる。将軍は「様子見」をしているように見えるかも知れないが、これは実際のところ「先を見越して待つ」ということである。(p122)

このアイデアは『孫子』の中にあったものを『老子』の編纂者たち(タオイスト)が発展させたものだという。そして中国の戦略思想の基本方針となった。(p121)

現代中国と「後発制人」

「後発制人」のアイデアは現代中国にも受け継がれて中共軍の戦略の一部となっていたが、最近は習近平国家主席のもと攻勢に転じて、どうやら「後発制人」は形骸化しているようだ。

今回の「中国の軍事戦略」の記者発表で最初に強調されたのが積極防御である。中国においては、毛沢東以来の積極防御戦略を今に至るまでずっと踏襲してきたが、今年の2015国防白書でも積極防御戦略が採用されている。

その意味では変わりばえのしない「中国の軍事戦略」になっている。

中国では毛沢東以来、「積極防御戦略が中国共産党の軍事戦略の基本」であり、「戦略上は防御、自衛及び後発制人(攻撃された後に反撃する)を堅持する」という表現が長く踏襲されてきた。

これだけを読むと中国の軍事戦略は極めて防御的であると読めるが、これは一種のプロパガンダであり、「米国防省の年次報告書」は毎年、中国の「後発制人」に疑念を呈してきた。

つまり中国の「後発制人」は建前に過ぎないと主張してきたのである。中国は朝鮮戦争において先制攻撃を行ったし、インド・ソ連ベトナムとの国境紛争において先制攻撃を行ってきたのである。

中国は、湾岸戦争(1990~1991)、コソボ紛争(1996~1999)、イラク戦争(2003~2011)などを観察し、IT(情報技術)などの最新の科学技術がもたらした米軍の「軍事における革命(RMA: Revolution in Military Affairs)」に驚嘆し、ITの重要性を認識するとともに、先制攻撃が圧倒的に有利であることを認識したのである。

中国は今や、宇宙やサイバー空間における先制攻撃は避けられないと認識するとともに、「戦役戦闘上は積極的な攻勢行動と先機制敵の採用を重視する」と表現するに至ったのである。

以上の議論をまとめると、「戦略指導においては、戦略上の防御と後発制人(攻撃された後に反撃する)を堅持し、戦役戦闘上は積極的な攻勢行動と先機制敵の採用を重視する」という苦しい表現になる。

前半の「戦略指導においては、戦略上の防御と後発制人(攻撃された後に反撃する)を堅持し」という表現はプロパガンダとしての建前であり、後半の「戦役戦闘上は積極的な攻勢行動と先機制敵の採用を重視する」が本音である。

つまり伝統的な建前と現代戦における戦勝獲得のための本音が混在したのが中国軍事戦略の本質である。

出典:渡部悦和/矛盾に満ちた中国の軍事戦略/日本戦略研究フォーラム

指桑罵槐」という言葉

中国人の行動原理を表すものに、「指桑罵槐(しそうばかい)(桑を指して槐・えんじゅを罵る)ということわざがある。桑は畑に植えられる木で、葉は蚕のエサになるが、槐は街路樹や庭木として植えられ、家具を作る際の材料となる喬木であって、似ても似つかない。つまり「桑の木をさして槐を罵る」というのは、「本当の怒りの対象とは全然別のものを攻撃する」という意味である。「ニワトリを指して犬を罵る」と言っても意味は同じである。

中国人が怒っているとき、その言葉を鵜呑みにしてはいけない。中国人は、どんなときも表立って誰かを批判したり、攻撃することはけっしてない。当事者を直接批判することはほとんどなく、この「桑を指して槐を罵る」というやり方を採る。つまり、ある相手を攻撃しているように見せて、実は別のところにいる人を批判しているのである。

だから、もし中国人が面と向かって罵り言葉を投げ付けたときには、それに直ちに反応してはならない。よく相手を観察し、彼らが真に攻撃したい対象が別のところにあるのではないかと考えるべきである。言い換えるなら、彼らが書かないこと、語らないことにこそ、事の本質が潜んでいるとみるべきなのである。

出典:岡田英弘/この厄介な国、中国/WAC BUNKO/2001 *3/p20-21 /p20

指桑罵槐」は「形」を形成するための手段なのだろう。

岡田氏の弟子である宮脇淳子氏によれば、中国人は日常の中でも戦略的な思考をしているという。



*1:「夫れ未だ戦わずして廟算して勝つ者は、算を得ること多ければなり

*2:『アンティークマン』というブログの記事 「「遅れて攻めれば、国を制す…!」要注意です」参照

*3:『妻も敵なり』(1997)を改訂