歴史の世界

中国文明:殷王朝③ 中期

中期は混乱期で進展は無かった。

このきじでは、王統と王都の変遷について書く。

この時代も文字資料がないので、考古学的証拠から推測するしかない。

本題に入る前に① 現代中国における古代中国の研究者たちについて

古代中国を研究するための資料は多種多様であり、しかも現在進行形で新しいものがどんどんと出現している。

まずは、さきほど出てきた甲骨文[亀甲や獣骨に刻まれた文字/文―引用者]と金文[青銅器に刻まれた文字/文]。このほか細長い竹片に文章などが書かれた竹簡や、絹の布に書かれた帛(はく)書などもある。このような考古学的な発掘や盗掘などによって土の中からでてきた、主に文字による資料を「出土文献」と呼ぶ。これらの出土文献は古文字と称される漢字の古い形で書かれており、読解には古文字学の知識が必要となる。[中略]

この出土文献というのは中国や台湾で使われる用語である。竹簡に書かれた書物や帛書などはよいとして、甲骨文や金文も文献と言ってしまうには違和感があるかもしれない。これは「伝世文献」と対比するための呼称である。[中略]

伝世文献とは史記』や『春秋左氏伝』『戦国策』『論語』『老子』『孫子』『山海経』といった伝統的に受け継がれてきた漢籍を指す。これらはもともと戦国秦漢期において、竹簡や帛書に小文字で書かれていたのが、何度も書写を重ねられ、時代を経るにつれて書写媒体が紙に変化し、当時通行していた書体に書き改められ、現代まで伝えられてきたものである。

これらの文献を歴史学の資料として用いる場合、甲骨文や金文が殷周時代の同時代史料、一次史料として扱われるのに対し、伝世文献については二次的な史料ということになるはずである。しかし実際には、古の王侯の命令や訓戒などをまとめたとされる『尚書』(『書経』や、西周王朝の官制についてまとめたとされる『周礼(しゅらい)』といった文献が一次的な史料として扱われることもままある。

出典:佐藤信弥/中国古代史研究の最前線/星海社/2018/p7-9(太字は引用者)

もう一つ。

近年では、中国でも殷代史の研究が再び盛んになってきているが、中国(および台湾)では、伝統的に文献資料の権威が強く、整理された甲骨文字資料があまり活用されていないという欠点が見られる。[中略] 殷王朝の支配体制や王の系譜などの研究において、いまだに同時代資料である甲骨文字が軽視されているのである。また、中国では政府による思想統制が厳しいので、大局的な分析や科学的な歴史観の構築が難しいという理由もあるようだ。

先に述べたように、文献資料の殷王朝に関する記述には、作られた物語が多く含まれているが、甲骨文字の発見以前にはそれが鵜呑みにされていた。しかし、近代に甲骨文字が発見され、その解読が進んだことにより、文献資料の記述を検証することが可能になった。

出典:落合淳思/殷/中公新書/2015/p12

「文献資料」というのは前の引用にあった伝世文献のこと。

(日本の古代史学はどうなのだろうか?このことについては調べていない。)

本題に入る前に② 殷王朝の系図

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出典:日本大百科全書(ニッポニカ)/小学館>コトバンク

上の系譜は『史記』「殷本紀」の系譜を甲骨文により一部修正したものと思われる。

「大乙(成湯)」が『史記』の湯王で殷の建国者。「帝辛(紂王)」まで30代。

異論はあるが、便宜的にこの系譜が使われることが多いらしい。

中期の王統と王都の変遷

史記』「殷本紀」に以下の文がある。*1

帝中丁は都を隞に遷した。中丁の弟の河亶甲は相に居住し、河亶甲の子の祖乙は邢に遷った。……中丁より以来、適子を帝に建てることをせずに、かわるがわる弟やその子を帝に立てたので、弟や子たちが帝位を争い互いに代わって立ち、9世に至るまで乱れた。ここにおいて、諸侯で入朝するものはなかった。

従来の考古学的時代区分では、殷文化を前後に二分し、鄭州商城文化(二里岡文化)と安陽の殷墟文化を前期・後期としていた*2が、両者の土器編年のあいだに型式的な隔絶があり、議論を起こしていた。

しかし、2つの遺跡の発見により、隔絶をある程度埋める有力な説ができた。

一つ目。鄭州商城から西北約20kmの鄭州石仏郷小双橋遺跡。規模は東西800m、南北1800mで、遺跡の年代は鄭州商城の末期または直後。「殷の王室に関係するというにふさわしい規模と格式をもった建築群がこの地に造営されていたと考えられる」*3

二つ目。殷墟から北1.5kmの安陽市花園荘村にある洹北商城。東西2150m、南北2200mで宮城・宮殿跡が発見されている。

小双橋遺跡は中丁の都・隞に比定されている。洹北商城の方は盤庚以下数代にわたる都として有力視されている。(佐藤氏/p58)

混乱の後、従来の通説では、盤庚が上記の王統を再統一し、殷墟に遷都したとされていた。その根拠は『古本竹書紀年』の記述にある*4。すなわち「盤庚旬は奄より北蒙に遷った。これを殷という。殷は鄴の南30里にあった。盤庚が殷に移ってから紂が滅ぶまでの273年間は、都を遷すことはなかった」(この「殷」は地名)*5

しかし、洹北商城と殷墟の発掘・研究の結果、異論が起こった。

まず、殷墟から出土する土器の大半が武丁以降のものである*6。また甲骨文字の研究により殷墟で出土する甲骨文字は武丁が最古である*7。また洹北商城の方では、宮殿区1号基壇の地層より焼土塊が確認されたという報告がある*8

以上を根拠にして、盤庚以降の都は洹北商城であり、武丁の代にここが火災に見舞われた時、目と鼻の先の殷(墟)に遷ったのではないかと推定されている*9

ただ、盤庚が王統を再統一したかどうかは考古学上の証拠はない(文字資料は武丁代が最古)。

議論の種であった「鄭州商城と殷墟の土器編年のあいだの型式的な隔絶」も上記2つの遺跡の発見で埋まったとされているようだ。

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出典:宮本氏/p328

  • 上の「白家荘」の時期は鄭州商城の衰退期または直後で、小双橋から出土したものを示している。

落合淳思氏の異論

落合氏は伝世文献ではなく甲骨文字から王統を推測している。落合氏の論拠の柱となるのが「直系合祀」と呼ばれるもの。

「直系合祀」とは王の系譜を合わせて祀るものだが、この直系合祀を示す甲骨文字の資料を調べると祖乙より後は見当たらない。つまり祖乙の後の代より混乱が始まった、と落合氏は考えている。

落合氏によれば、甲骨文字の祖先合祀の組み合わせから以下のような系譜が推測できるという(詳細は本書で)。

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出典:落合氏/p40

落合氏は現在までの考古学的成果と自身の研究を踏まえて中期の混乱を以下のように説明する。

混乱期について、春秋戦国時代に作られた『尚書』や『竹書紀年』では、殷王朝が遷都を繰り返したとしている。しかし、これは「諸弟子」による王位継承を前提にした記述であり、実際には地理的に分裂し、それぞれの王統が各地で独自の本拠地を築いていたとするのが妥当である。

考古学の調査により、殷代中期には二里岡遺跡(鄭州商城)が首都機能を失ったことが判明している。しかも、それに代わる巨大な都城が存在しなくなり、殷代中期には各地に中規模の遺跡が見られるだけである。おそらく、そのうち幾つかが分裂した勢力の本拠地だったのであろう。

殷代中期の遺跡で最も大きなものは、殷代後期の都である殷墟遺跡に隣接する洹北商城である。武丁は殷墟遺跡に都を置いたので、洹北商城はその系統である祖辛・祖丁・小乙の根拠地であったと考えられる(そのほかの勢力は今のところ根拠地不明)。

出典:落合淳思/殷/中公新書/2015/p42

王都の規模

最後に、各王都の規模を記録しておく。

  • 前期:鄭州商城 1700×1870m(東西×南北)
  • 中期:小双橋遺跡 800×1800
  • 中期(後期?):洹北商城 2150×2200
  • 後期:殷墟 6000×4000

洹北商城は鄭州商城よりも大きいので、再統一をしたのは洹北商城の王の建設者かその系統ではないのだろうか。 



*1:和訳は「宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p329 より

*2:概説 中国史 上(古代ー中世)/昭和堂/2016/p27(吉本道雅氏の筆)

*3:小澤正人・谷豊信・西江清高/中国の考古学/同成社/p173-174(西江清高氏の筆)

*4:この件については『史記』の記述よりも正確だとされている(世界歴史体系 中国史1 先史~後漢山川出版社/2003/p121(松丸道雄氏の筆)

*5:宮本氏/p327

*6:宮本氏/p327

*7:落合淳思/殷/中公新書/2015/p35

*8:佐藤氏/p58

*9:佐藤氏/p58