歴史の世界

春秋戦国時代とは/時代区分/資料について

春秋戦国時代/東周

前回で少し書いたが、ここでは少し詳しく書いていこう。

国史における春秋戦国時代西周代と秦代の間の時代。西周滅亡と秦帝国誕生(中華統一)の間の時代。

周王朝西周代後半より徐々に軍事力を失っていたが、最後の王・幽王が継承争いを起こしたため一気に全ての権力が崩壊した。周王朝はその後も存続するが、それまでの支配体制が崩壊したことをもって、西周が滅亡したとされている。

西周」「東周」というのは、東周の王都が鎬京(西周の王都)の東・洛邑(洛陽)に遷ったため、幽王までを西周と呼び、幽王の次の王・平王以降から東周と呼ぶことになっている。「西周」という用語は時代区分としても使われる一方で、「東周」は時代区分としてほとんど使われない。東周が存続した時代は春秋戦国時代という用語が使われる。こちらのほうが群雄割拠の様相をより正確に表しているからだ。「東周」など周王朝の存在すら知られていない程度の存在しかない。

春秋戦国時代の中の時代区分

春秋戦国時代は大きく2つに分かれる。「春秋時代」と「戦国時代」。

春秋時代:周王室の権威・権力の喪失後、諸侯国が覇権を争った時代。といっても周王室が まだ存続し、ほんの少しではあるが権威を持っていた(諸侯国が認めていた)ので、諸侯国の中の大国は統一を追求するよりも覇権を握った上で秩序を作ることを求めた(現代のアメリカのような位置を求めた)。また西周代の支配領域の外にあった楚・呉・越が勢力争いに加わってきたため、中華統一の時期はさらに遠のいた。

戦国時代:大国晋が魏・趙・韓に分裂し、「戦国七雄」と呼ばれる大国が相争う時代。春秋時代の秩序が色あせて弱肉強食むきだしの時代へ突入した。この中で秦が最後に中華統一を果たし、春秋戦国時代が幕を閉じる。

資料について

春秋戦国時代の研究者はどのような資料を扱うのか?

春秋時代の資料

春秋時代の主な資料は『春秋』と『春秋左氏伝』。

『春秋』は諸侯国・魯国の年次記録。信頼性は高いが年表のように簡素なもので、大雑把なことしかわからない。

いっぽう、『春秋左氏伝』は『春秋』に解説をつけたものだが、『春秋』の記述範囲を越えて各諸侯のことも詳しく書かれていて、研究者は重用しているようだ。。しかし、戦国時代前半期に作られたもので(『春秋』が書かれてから100年以上経っている)、しかもフィクションが混じっていて信頼性は『春秋』に劣る。*1

佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(星海社/2018/p140-141)によれば、殷周代や戦国時代のような出土文献(甲骨文字・金文・竹簡など)が伝世文献(『春秋』『春秋左氏伝』のような受け継がれた文献)で作られた歴史に影響を及ぼすほどのものはないとのこと。

上の2つの伝世文献以外では『国語』が挙げられる。『国語』は春秋期の国別に説話を集めた文献。*2

もう一つは『竹書紀年』。戦国時代の魏国の年次記録。「竹書紀年 - Wikipedia」によれば、「西晋の279年に現在の河南省にあった魏の襄王の墓を盗掘した際に大量の文字を記した竹簡が出土し、整理した中の一つがこの本である」とのこと。

戦国時代の資料

戦国時代には、『春秋』『春秋左氏伝』ほどの信頼できる資料は無いとのこと。主に『史記』に頼っているようだ。

ひらせたかお氏によれば*3史記の記述を補う資料の第一のものとして『竹書紀年』を挙げている。

佐藤氏は出土文献を読まずに戦国時代は語れないとしている。戦国時代についての出土文献は竹簡(竹に書かれた書)と帛書(布に書かれた書)に書かれたものが墓から発見されたものだ。上述した本の第4章「統一帝国へ」の第1節と2節に詳しく紹介されている。これらの文献は諸子百家の書が主流だ。

落合氏によれば、「戦国時代の文献のなかで、内容が当時のものとして比較的信頼できるのは、『論語』『孟子』『荀子』『韓非子』である」。



次回から春秋時代の歴史に入る。


*1:以上、落合淳思『古代中国の虚像と実像』(講談社現代新書/2009/p60-62)参照

*2:佐藤氏/p141

*3:世界歴史大系 中国史1/山川出版社/p276