歴史の世界

中国論② 大隈重信の『日支民族性論』 その3 儒教について

儒教について大隈がどのように説明しているのかを書く。

この記事では、上の本を元に大隈の儒教観を書いていく。

儒教の要点「仁」

まず大隈は以下のように述べる。

古今にわたって見るかぎり、偉人が人を導く語は、たいていにおいて大差のないものである。[中略] 孔子が仁を説き、仏が慈悲を説き、キリストが愛を説くのも、その要点は同じところにある。(p42)

3者の3つの語の類語は「愛」である。この「愛」は性欲に関する愛(エロース)ではなく、他者への「思いやり」「慈しみ」を表す。

仏の慈悲とキリストの愛(アガペー)が「博愛」(すべての人に対する平等の愛)であるのに対して、孔子の仁は「仲間内(共同体の中)への愛」である。戦国時代の墨子はこれを批判して「兼愛」を説いた。兼愛は博愛と同じ意味を表す。

「礼」と後代の儒家

さらに進む。

「智これに及び、仁よくこれを守り、荘をもってこれに涖(のぞ)むとも、これを動かすに礼をもってせざれば、いまだ善(よ)からざるなり(道理を知って「仁」の道を守り、荘重な態度をもって臨んだとしても、民衆の心を動かすのには「礼」をつくさなければ、善処したとはいえない)」

いわば、孔子による儒学の生命とするところは、「礼」の攻究にあった。つまり孔子は、「詩書、執礼みな雅言す(「礼」をとるときは、どれも上品な言葉づかいである)」といって、『詩経』『書経』とともに「礼」を攻究することこそがその要諦であった。

しかし、これがそもそも後代に至るまで長く儒学の迷誤となり支那全国に「新民(民を親(あら)たにする)」の要素を欠き、国勢の発展を失わせた基となった。(p43-44)

「礼」とは大衆においては冠婚葬祭のマナー(作法)であり、政治においては外交などの儀礼プロトコール)のことである。

つまり大隈は、孔子が最も重要だとしていたのは「仁」であるのに、後代の儒家が「礼」に固執し、また三代(夏・殷・周)を理想としすぎて、新しい社会を創ることができない、と言っている。

後漢の時代に儒教は国教にまでなったが、後漢が滅ぶと いよいよ形式的、装飾的なものになっていった。(p50)

孔子支那への批判

しかし大隈は孔子自身も批判している。

大隈は老子孔子の問答を書いた後に「いかに老子が、孔子が礼儀の細節(本質ではないこと)に拘わり、表面を粉飾(虚飾をとりつくろう)しようとするのを戒めたかがわかる」と書いている。(p46)

同時代の老子にさえ、このように見られたのだから、後代の儒家孔子の主張を迷誤しても仕方のないことのように思える。

そして最終的には支那への批判へと繋がる。

支那が古来、幾多の革命を経たにもかかわらず、その文明の上になんら新しい要素を加えてこなかったのは、孔子儒教を万古不易(ばんこふえき)の道と誤認して、宗教的偏執(へんしゅう)ともいえるものを抱(いだ)き、それにのみ拘泥して他を排斥してきたからである。(p42)

支那が「新しい要素を加えてこなかった」というのは言い過ぎのように思えるが、中国人が、西洋と比べて、新しい要素を生み出した偉人に対するリスペクトが無いことは確かだ。

一説によれば、中国の科学史家ジョセフ ニーダム著『中国の科学と文明』を知るまで、中国人自身が過去の中国における科学技術の発明・開発を知らなかったという。

変わり果てた儒教

上で「後漢の時代に儒教は国教にまでなったが、後漢が滅ぶと いよいよ形式的、装飾的なものになっていった」と書いたが、後漢が滅んだ後、儒教はどのようになったのか。

魏(220-265)に入ると、儒学は、曹操に、その子である曹丕曹植に弄(もてあそ)ばれて、詩賦の流行となった。

時代は下って六朝(222-589)に入ると、儒教は、仏教と抱きあわせられて、詩賦や清談と並び盛んに行われ、いよいよ形式的、装飾的となった。

さらに時が経って、唐(618-907)から宋(960-1279)以降になると、それは性理の学(宇宙の理(ことわり)から人間や物質の存在原理を追求するもの)と化し、政治とはますます縁遠くなって今日に至っている。(p51)

性理の学とは朱子学のことであるが、朱子学の説くものは孔子が説く「仁」とは程遠いものだった。

大隈重信岡田英弘の「儒教観」は同じ

岡田英弘氏は有名な東洋史家であり、特にモンゴル史で有名だ。中国に対しては批判的である。

さて、岡田氏の儒教観を見ていこう。

儒教という言葉をどう定義するかにもよるが、宗教としての儒教は、2世紀末の後漢時代に事実上滅びている。本来の儒教は、先祖を祀ることを重んじ、その儀礼をいちいち定めた信仰であった。いわば葬式専門の学はだったらしく、葬式や副葬の儀礼についてひどくうるさい。墨家の文献に『非儒篇』というおがあり、その中に当時の儒家について書かれている部分があるが、それによると、儒家というのは人が死ぬとやって来て、屋根に上がってホイホイと魂を呼んだり、鼠の穴をほじくって出てこいと叫んだりするので、バカバカしくてしょうがないとある。どうやらこれが儒教の本来の姿、つまり一般民衆の生活に根ざした姿であったようだ。

出典:岡田英弘/この厄介な国、中国/WAC BUNKO/2001(『妻も敵なり』(クレスト社/1997)の文庫版)/p179-180

上で語られているのは「原儒」と呼ばれる孔子以前の儒教で、このころは職能的シャーマンだった。*1

上の本で岡田氏の主教としての儒教の説明は以上で全部だ。この本は宗教を説明する本ではないので紙幅の関係もあるが、孔子の説く「仁」の説明が上の説明よりも些末なことだと岡田氏は考えていると読める。

さて、岡田氏によれば、「宗教としての儒教」は後漢の滅亡をもって滅んだ。

しかし「宗教ではない儒教」は存在している、とする。それはどういう意味か?キーワードは「科挙」。

科挙の試験の目的は、これまでに何度も説明してきたように、公用通信文や公文書に用いられる漢文を、古典に基づいて正確に筆記できるか―科挙が求めているのは、ひたすら文章作成能力であった。そして、その文章作成において、模範文例集として採用されたのが儒教の経典(いわゆる四書五経)とその伝統的な注釈であった。そんなわけだから科挙儒教の経典が採用されたからといって、受験生も試験管も儒教の教えを信じているわけではない。あくまでも、四書五経は彼らにとって漢文作成のためのツールなのである。

しかし、何事においても建前と本音がある。本音では四書五経はツールであっても、建前としての科挙の受験者は儒教徒になることが求められた。科挙の試験を受ける者はみな孔子廟に行く習わしがあり、形式的ではあるが、そこで孔子様に弟子入りするという手続きを取ることになっていた。儒教は信仰の対象としてではなく、科挙の試験の出題範囲としてのみ生き残ったわけである。

出典:岡田氏/p181

ここで重要なのは、漢人・漢族と言っても彼らの言語は多様で方言というよりも別の言語と言ったほうがいいほど離れている場合もある。

これらの人々は実は話し言葉ではなく漢字で繋がっている。春秋戦国時代までは同じ意味の漢字でも様々な形の物があったが、秦の始皇帝焚書をして漢字を統一したおかげで、この漢字によって大陸の人々は意思疎通できるようになった。

しかし昔は文法というものが無いのでどうしたかというと、四書五経に頼った。つまり儒家に頼った。

上で書いたように、儒家は『詩経』『書経』を大事にして暗記するほど読み込んでいた。隋の時代には他にも宗教があったが、漢字・漢文に秀でていることに関しては儒家が他を圧倒していた。そしてテキストも普及していて、且つ、整理もされている。こうして科挙のテキストとして採用されることになった。

さて、時代は下って宋の朱子学(性理の学)について。

この「新儒教」を確立したのが、朱子学の大成者・朱熹であった。宋代に誕生した朱子学儒学の一派であると言われているが、それは事実ではない。その証拠に、朱子学では孔子が一度も語ったことのない宇宙論、陰陽論が扱われている。これはもともと道教の思想である。

しかし、朱熹はなにもイカサマをやろうとしたわけではない。当時においては、儒・道・仏の三教を厳密に区別する習慣はなかった。むしろ、この三教を同時に取り扱うのが当たり前だったのであり、儒教を歪めたという意識は彼らにはなかったことであろう。

現代に至り、純粋化されたと考えられている儒教にしても、道教的な要素がひじょうに大きく残っている。例えば儒教の気の哲学には、理と気の二つの原理があるとされているが、これも道教が基本になっている。また、陰と陽が混じり合っていることを示す太極図も道教からきたものである。

このように、儒教の基本的な体系と信じられていることの多くが、実は道教を起源としているのである。

出典:岡田氏/p213

ここで書いていることも、大隈の主張と大差ない。

さて、多少の違いはあるが、基本的に大隈と岡田氏の儒教観は同じだ。もっと言えば「中国観」もかなり重なる部分がある。両者の本を読み比べると大変興味深い。



参考になる動画

【9月8日配信】歴史人物伝「●●もビックリの中国論?!大隈重信を語る」倉山満 宮脇淳子【チャンネルくらら】 - YouTube

youtubeのチャンネル「チャンネルくらら」*2の「皇帝たちの中国」シリーズ(リンク)(宮脇淳子*3が語り手)


*1:1205夜『儒教とは何か』加地伸行|松岡正剛の千夜千冊参照

*2:倉山満氏の番組

*3:岡田英弘氏曰く「最良の弟子であり最愛の妻」