歴史の世界

中国論② 大隈重信の『日支民族性論』 その2 同時代の支那の動きを踏まえて

まず、大隈と同時代の清国の歴史を振り返る。そのあとに大隈がそれを見てどのような中国観を持ったのかを見ていこう。

洋務運動と日清戦争

日清戦争の前は、清国はまだ「眠れる獅子」と恐れられていた。ヨーロッパ近代文明の科学技術を受け入れて国家増強を図った(洋務運動、1860年代前半 - 90年代前半)。中でも海軍を建設しドイツから購入した鉄甲戦艦「定遠」および「鎮遠」は日本に脅威を抱かせた。日本は甲申事変の失敗して清国に朝鮮の権益を奪われ、清国はいよいよ傲慢になっていた。

この傲慢さは日清戦争(1894-95)の敗北により潰えた。「眠れる獅子」がただのハッタリでしかなかったことが世界に暴露され、いよいよ列強国の大陸への蚕食が始まった。

戊戌の変法(1898年)

日清戦争後、支那人は日本を恨むどころか日本に学ぼうという機運が生じて多くの留学生が日本に来た。

光緒帝も日本に学ぼうとした一人で、日本に亡命していた康有為を抜擢して政治改革に乗り出した。この改革は洋務運動のような表面的な欧米の科学技術の導入とは違い、日本に学んで政治制度そのものを近代化しようとしたものだった。

しかし、西太后が光緒帝を幽閉して実権を奪った結果、この改革は失敗に終わった。そのようなわけで、百日維新とも呼ばれる。

この反動で、日本排斥の声が盛んになった。

義和団の乱(1900年)

戊戌の変法が失敗した後、すぐに義和団の乱が起こる。この乱の鎮圧後に列強諸国が北京に入ったが、日本軍が連合軍の中でも一番規律が厳粛だったので、北京の警察権はことごとく日本に託された。

この結果、支那人は再び日本に学ぼうという機運が生じ、多くの書生が来日して軍事・経済・政治などの書物を持って帰った。

さらには西太后までがこの流れに乗って彼女が潰した戊戌の変法の焼きまわしの改革を始めた(光緒新政 1901年)。しかし西太后がこの乱に乗じて列強諸国に宣戦布告したことが内外からの信頼が失墜し、清国は滅亡へと向かった。

日露戦争(1904-95年)の後

世界の予想に反して日露戦争は日本が勝利した。

これによってまたもや支那では日本を信頼する熱が生まれた。

日露戦争の勝利によって]支那は急に、また日本を信頼するようになり、日本から学ぶこととなった。[中略] かれこれ支那の学生は2、3万人も来たであろう。

日本からも、多くの人が支那に雇われていく。支那は、中央も地方も、盛んに日本人を招聘し、顧問といえば、ことごとく日本人という観があった。その力によって支那で大革新を行おうとしたのである。[中略]

しかし、彼らは、ただ模倣に急いだため、その意までに十分に徹底していなかった。それで、外国人などとの交渉のときにも、疑義を生じて解説に苦しむ場合があると、日本の公使館まで説明を求めにきた。滑稽な話ではあるが、実際に彼らは、その義(いみ)に通じることができていないにもかかわらず、そのまま日本の法令を用いたのだった。

出典:大隈氏/p25-26

日本も不平等条約撤廃のために、急ごしらえのヨーロッパ法制をつくって、その中身は日本の実情と合わないものも少なくなかったという。

日本の場合はそれから時間をかけて実情に合わせていったが、中国大陸はその余裕はなかった。日露戦争の直後に清国は崩壊し、軍閥割拠の戦乱の世になっていった。

同時代の支那の動きを踏まえて

同時代の支那の動きを踏まえて大隈は支那について何を思ったか。

苦痛がされば日本を排斥し、苦痛が来れば日本を信頼する。いったい、どういった理由からなのか。そのあいだの心理状態はたいへん怪しいもので、想像もできないほどに変態(病的な状態)が多い。

人は経験を尊ぶ。それによって、どんなときに苦痛が来て、どんなときに苦痛が去るかを知らなければならず、したがって、その不利となる態度や精神を改めなくてはならないから、たんに功利的説明を用いたとしても、すぐにわかるはずであるのに、これがわからないのは、いったい、どういうわけなのか。

出典:大隈氏/p22-23

上に対する疑問に答えるとすれば、いくつか案がある。

その1福澤諭吉が『世界国尽(くにづくし)』で書いた、支那には「本当に国のためを思う者が」いないというのが、当時の日本との大きな違いと言えるだろう(福澤諭吉の『脱亜論』参照)。

中国が大きすぎて個々人が国のことを考えられなかったということが考えられるが、私の考えでは逆に、「本当に国のためを思う者が」大勢いた幕末維新の方が特異だと思う。日本は他地域と違ってほぼ一国一民族だったからだろう。

こう考えれば、なぜ現在の中国政府がウイグルなどを強制的に漢人化しようとしていることが分かる。

その2。『中国人と日本人』*1によれば、中国の特性の一つに「5分間の熱情」というものがある、という。言い換えれば健忘症だ。

上の本でいくつか例を挙げているが、まず一つ挙げる。

世界史にも出てくる「対華二十一カ条の要求」という条約が1915年5月7日に署名された。中国ではこの日を「国恥記念日」として、中国人は毎年この日に記念活動をすると心から誓った。しかし、中国人はこれをすっかり忘れてしまう。

中国思想史における先駆者的存在だった梁啓超が、「国恥記念日」10周年にあたる1925年5月7日に「10回目の『5・7』」という文章を書いて、中国人の健忘症ぶりを批判するとともに、理性に欠けて感情的で衝動的な中国人の抗議活動のありかたを嘆いています。

皆を怒らせるだろうが敢えて言う。"国恥記念" というこの言葉は、"義和団" 式の愛国心に基づいたものに過ぎぬ!義和団式の愛国心が良いか悪いかはここでは言わない。だがその源になっているのは "5分間の熱情" であって、この種の非理性的な衝動が持続性を有するなどとは、私は絶対に信じないのだ。(梁啓超、前掲)

出典:金谷譲、林思雲/中国人と日本人/日中出版/2005/p171、林思雲の筆

怒るときも礼賛するときも "5分間の熱情" だというわけだ。熱しやすく冷めやすい。

その3反日ナショナリズム

義和団の乱の時に「扶清滅洋」と「掃清滅洋」というスローガンが叫ばれた。どちらにしろ「中国から列強勢力を追い出せ!」というものだが、これがナショナリズムの源流だという人もいる。さらに、日露戦争以降 大陸の権益が日本に集中し始めると、排外主義も反日へと集中していく。

これに加えて中華思想(劣等感の裏返し)から成る日本への蔑視が反日ナショナリズムを成立させた。

ここで中国のナショナリズムにおける宮脇淳子氏の見解を紹介しておこう。

のちに毛沢東義和団の反乱を「ナショナリズム」と捉えました。確かに「外国人出て行け」という排外運動なので、ナショナリズムだとも言えますが、ナショナリズム自体を定義し直した方がいいでしょう。「ネイション」は国のことですが、古田博司さんが言うように、中国や韓国に愛国ナショナリズムがあるかというと、あるのは反日ナショナリズムだけです。国を大事にするナショナリズムがあるならば、反日だけでなく、同国人で助け合うとか、もう少しやることがあるのではないかということです。したがって、中国のナショナリズムは、正確にいうとエスノセントリズム(自民族中心主義)と言い直したほうがいいでしょう。

出典:宮脇淳子, 岡田英弘/日本人が知らない満洲国の真実 封印された歴史と日本の貢献 - Google ブックス

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また、大隈は支那人を評して忘恩と背信の行為の多いことは「ほとんどその遺伝性によるものである」とまで断言している(p9)。

当時の日本人が請われるがままに善意であれこれ教えても、支那人はその恩をすぐに忘れて日本排斥に向かうことに憤慨している。



*1:金谷譲、林思雲/日中出版/2005/p168、林思雲の筆