歴史の世界

儒家(6)孔子の死後の状況

儒教孔子については以前に書いたので *1 、ここでは戦国時代の儒家について書く。

孔子の死後の弟子たちの動向

弟子たち及びそれらの弟子の系統は幾つかの派閥に分かれているが、ここでは大きく2つのブロックに分けて見ていこう。

以下の説明は貝塚茂樹諸子百家』をテキストにしている。

諸子百家――中国古代の思想家たち (岩波新書)

諸子百家――中国古代の思想家たち (岩波新書)

論語』の先進篇の「先進」とは孔子の門弟の中で年長組のことを指す。彼らは孔子が遊説 *2 する以前に入門していた。最年長が子路孔子と9歳しか違わない。最年少が顔淵で孔子との年の差は30。

いっぽう、「後進」(後輩組)とされる門弟は遊説後に入門してきた人たちだ。代表として子游・子夏・子張が挙げられる。子夏は魏の文侯のブレーンであった李克の師匠だ。文侯自身が子夏に師事したと言われている。彼らは老年になった孔子から「後生畏るべし」と高く評価された。

先進派と後進派

さて、先進篇には先進と後進の対比が書かれている。

孔子に入門して学問をまなび、知識を求める根本的な態度に関して、弟子たちの間にすでに孔子の在世時代からかなりの差異が現れはじめていた。孔子は晩年に門弟たちの学問の仕方を批評して「先進の礼楽におけるや野人なり、後進の礼楽におけるや君子なり、もしこれを用いんとせば、われは先進に従わん」といっている。

出典:貝塚茂樹諸子百家岩波新書/1961/p8

「野人」の意味するところは、野蛮とか粗野などのネガティブの意味ではなく、農村の庶民に近い素朴さを持っているという意味。対して「君子」は礼楽において都市に住む貴族に劣らぬ完璧さを持っているという意味で使っている。

貝塚氏は、礼(礼楽)においては後進派の方が勝っているのに孔子はなぜ「われは先進に従わん」としたのか、と問いかける。

その答えは、長年共にいた先進派への情愛を別にすると、儒教の最重要の徳目とされる仁への理解にあるという。

論語』陽貨篇で、孔子は「礼だ礼だとわわいでいるが、神にささげる玉とか弊帛の末節だけがもんだいなのではない。楽だ楽だといっても、問題は鐘太鼓の楽毅にあるのではない」といい、礼の根本にある仁の重要性を説いている。

先進派が師弟間の密接な人間的なふれあいのなかで人格をつくり上げたのに対して、人間的な魅力を十分に感得しえなかった後進派は、孔子の全人格ではなく、学者としての孔子にだけしか関心をいだかなかったといえるのである。

出典:貝塚氏/p19

上の引用の後に貝塚氏は先進派は「客観的な社会秩序である礼より、人間書く個人の主観のなかにある仁の徳自体を内省することから修行をはじめた」とし、他方 後進派については「ややもすると礼の末節にかかずらわって孝道のもとである父母にたいする尊敬心を忘れる」と評している。

精神科学派と社会科学派

孔子が亡くなり先進派も引退した後は後進派の時代になるのだが、この時代の中から曾子が先進派の思想を受け継いだ。

これ以降、貝塚氏は後進派の思想を社会科学派とし、先進派の思想を精神科学派あるいは人文学派とした。

精神科学派は曾子から 孔子の孫の子思に受け継がれ、この系統に孟子が現れる。

社会科学派には上述の子夏がいる。戦国初期に覇を唱えた魏の文侯は老年の子夏に師事し子夏の弟子の李克をブレーンにした。社会科学派の系統に荀子がいる。韓非(韓非子)と李斯は荀子の弟子とされる。李克・韓非・李斯、ともに法家の代表格だ。社会科学派から法家の代表が現れるのは興味に値する。

後進派の問題としているのは仁の徳が客観的に実現した社会秩序である礼であるが、来るべき世界はいかなるものであるかを見透し、未来社会の礼を予測しようとした。時と所が異るにしたがって、礼は変化するものと信ぜられたからである。

出典:貝塚氏/p20

儒教は先例に習うものとばかり思っていたが、上のような発想も当初からあったそうだ。『韓非子』の五蠹篇には「上古の聖人がいくら偉大だったからとは言え、現代社会で彼らの真似をしても笑い者になるだけだ」というようなことが書いてある。

これは儒家への批判と受け取れるが、このような批判の源流には社会科学派の考えがあったのかもしれない。



次回に精神科学派の孟子と社会科学派の荀子について書いていこう。


*1:儒教については「中国論② 大隈重信の『日支民族性論』 その3 儒教について」、
孔子については「春秋戦国:春秋時代⑨ 孔子の登場 その1 時代背景」を含めて連続して6つの記事を書いた。

*2:魯の卿(家老)と対立した結果、亡命しなければならなかったと言われている