歴史の世界

中国論② 大隈重信の『日支民族性論』 その4 道学(老子)について

この記事では、上の本を元に大隈の道学観を書いていく。

道学について

道学とは つまり「老子」のことだ。箔をつけるためかどうか知らないが、道学の始まりは黄帝、大成者を老子ということにして、道学を「黄老の学」と呼ぶこともある。黄老思想については「前漢・高祖劉邦⑤:休民政策/黄老思想 」で紹介した。

老子の全容を語ることはできないので、黄老思想の説明だけを紹介しよう。

黄老思想

中国の道家(どうか)思想の一派。神話や伝説上の帝王黄帝(こうてい)と、道家思想の開祖とされる老子(ろうし)とを結び付けた名称である。漢の初め(前2世紀前半)に政術思想として為政者の間で流行した。宰相の曹参(そうしん)が無為(むい)清静の政術として斉(せい)の国から伝え、秦(しん)の厳しい法治に苦しんでいた人心を解放するものとして歓迎された。ことさらなことをせず、基本的な法にゆだねて単純簡素な政治を行うことを主にし、『老子』や『黄帝書』を尊重した。ほぼ50年にわたって漢の統治の指導理念となっていたが、武帝(在位前141~前87)の儒教尊重による積極的な政治思想によって衰微した。[金谷 治]

出典:出典:コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大隈は《「文(外見)」を嫌って、「質(内面)を尚(たっと)んだ」(p47)と書いている。

「礼(マナー)」をとやかく語っているだけの儒家を嫌い、道学は本質または現実をありのままに見抜くことを重要視する。

これに続く文章を引用しよう。

清浄無為(清らかで自然に任せている)で、大道(正しい徳の道)に合うのを願い、社会の秩序はこれによって保たれる。政治は法律が定めるところに任せればよい。

いっとき、それ以外に「三百の敬礼、三千余の威儀」などといった繁瑣(煩瑣)なものをつくりだして、自由なわれわれの進退(行動)を拘束しようという試みもあったとはいえ、これらのことはすでに過去に属するものであって、実は当世ではなんら用のないものだとしたのだった。

道学が人を導くのは、きわめて簡素である。それで、その学徒の中から、一方で刑名の学、他方には兵学が起こり、これによって社会を当世することになった。これが、そもそも時代の変化の初めだった。(p47)

ここでは「時代の変化の初め」は秦の始皇帝が中華統一を達成し、刑名の学を使って全土を統治しようとしたことを指す。

刑名とは実際の行いと言葉による名目の一致を求める考え方、もっと簡単に言えば、行動に対する賞罰のルールを厳格にして守ることを重要視する思想のことだ。

秦が滅んで前漢になると、劉邦とその遺臣たちは秦の法律を受け継ぎながら黄老思想に基づいた政治(法律を定めて守る以外はほとんど何もしない単純簡素な政治)を行った。

さて、大隈は始皇帝の大改革を高く評価している。大改革の一例として焚書坑儒を評価して以下のように書いている。

これだけのことを断行しなくては、従来分裂してしまっていた列国を合体して、そこに十分な統一的制度を立てることが、とうてい不可能であったからだ。これを悪行することは、まったく支那人の思想に横たわる根本の誤りである。民を新たにする治世の要はここにある。これでなくては、国勢の発展を期することができないのではないか。(p40)

さらに秦の滅亡以降の支那について以下のように書く。

法治国家の端を啓いた秦の帝業(皇帝の政治)も、このように脆くも道なかばで挫敗(挫折し失敗)することとなる。こうして支那の政治は、進歩どころか、かえって大きく退歩した。その後にも、われわれから見れば、乗じるべき革命の機会は幾度もあったにもかかわらず、これをあえて行なうものはなかった。(p151)

要するに言わんとすることは、支那は秦よりも後、問題の本質を直視して根本的な大改革をすることができずに今日に至っている、と主張する。

いちおう書いておくが、支那は刑名の学(法家の学)を捨てて、儒教の思想だけで統治していたわけではない。

別のところで大隈も書いている通り、前漢の初期は秦の法律を踏襲した。また、それ以降の前漢儒教の思想と法(刑名)の思想を織り交ぜて統治に利用している。このことは宣帝が皇太子(のちの元帝)に対して「漢王朝では昔から覇道[法家]・王道[儒家]の良いところを取っているのだ。儒教だけが素晴らしいなどと勘違いするな!」という逸話が『漢書』・『十八史略』などに書かれている。*1

このことを小室直樹氏は次のように書いている。

中国における統治機構は、じつは二重構造だった[中略] 。すなわち、表向きは儒教で国を治めてきたのだけれども、実際は法家の思想で統治してきた。これを「陽儒陰法」と言う。

出典:小室直樹小室直樹の中国原論/徳間書店/1996/p179-180

そういうわけで、大隈が主張するように法家の思想(道学)が統治に重要だということはそのとおりかもしれないが、秦滅亡した後に退歩したというのはあからさまな間違いだ。

国史における法治国家

ここで、法治国家の話をしよう。

中国における「法治国家」と現代の政治を話す時に使う「法治国家」とは意味が違う。

刑名の学で有名なのは始皇帝の丞相であった李斯や『韓非子』を書いた韓非が有名だが、彼らは法家と呼ばれた。法家の目指すところは、人々の行動に対する賞罰のルール(法)を定めて厳格に遵守することによって政治を行うこと。儒家の徳治(為政者の徳に基づく政治)に対立する政治思想とされる。

では、現代の法治国家とはどうちがうのか?

近代リベラル・デモクラシーの発祥地は英国。1688年の名誉革命、そして翌年の権利宣言では、高らかに謳いあげる。王は最高である。王はすべてである。しかし王は法の下にあり、と。この法律とは人民を主権者から守るもの、というのが近代法の根本的な考え方なのだ。[中略]

近代法がイギリス、アメリカといった国々で進歩してきたのは、いくつかの革命を通してである。そして欧米諸国に定着した。ではそのテーマは何かというと、一言で言えば、法律というのは政治権力から国民の権利を守るものである、ということ。近代法はそういう立場に立っている。清教徒革命(1624-1660年)、名誉革命(1688年)、それからアメリカ独立宣言(1776年)、フランス革命(1789年)、これらに一貫して流れている精神は、法律とは権力に対する人民の抵抗であるという思想なのだ。人民が主権者から自分たちを守る楯、それが法律であると。

ところが、このような精神がまったく欠落しているのが法家の思想(法教)、中国の法概念なのである。立法だとか、法の行使だとか、そういう点についてはとても進んでいるが、「法律とは政治権力から国民の権利を守るものである」という考え方がまるでない

考えてみれば、それも当然のことであろう。法家の思想において法律とは、統治のための方法なのだから。法律はつまり為政者、権力者のものなのである。

韓非子もはっきり言っている。法律を解釈するときは役人を先生としなさいと。この場合の「役人」というのは、いまでいう行政官僚のこと。

一方、近代の欧米社会において、法律の最終的解釈を行うのは裁判所だ。裁判所の前では、行政官僚といっても普通の人とまったく同じである。とにかく、近代社会における司法権力の最大の役割は、行政権力から人民の権利を守ることなのだから。

こうした考え方が法家の思想には全然ない。いま指摘したように、法律の解釈はすべて役人がにぎっている。ということは、端的に言えば、役人(行政官僚)は法律を勝手に解釈していいということなのでもある。

出典:小室氏/p206-207(本で傍点になっている箇所を下線にした)

上のようなことは現代でも続いている。

例えば、中国で商売をしている日本人や欧米人が中国の法律を字面通りに守って商売をしていると、役人がやって来て「お前はこの内規に反するじゃないか」と言い出して、罰するようなことを平気でするのだ。「内規なんて聞いてないよ!」と言っても通用しない。役人が法律を勝手に解釈してもいい権利を持っているのだから。

このことは外国人に対してでなく、中国人に対しても同じだそうだ。少し上の話とずれるが、別の本から引用しよう。

中国は、「官」と「民」の徹底した二元社会です。"父母の官" という言葉が昔ありました。「官」の地位は、一般大衆の父母のようなものであって、だから限りなく尊く、ゆえに一般大衆は無条件に官員の指図に従わなければならないという意味です。こんな社会では、一般大衆は絶えず官員から蔑まれ、自尊心を傷つけられる状態に置かれることとなります。

出典:金谷譲、林思雲/中国人と日本人/日中出版/2005/p77、林思雲の筆

庶民がやむを得ず役所に行くと、役人に冷淡な目と傲慢な態度で迎えられる。これに対して庶民は愛想笑いで対応しなくてはならない。なぜなら、そうしないと「相手が機嫌を悪くして、してほしい手続きをしてくれない」からだ(p78)。

というわけで、大隈の指摘とは逆に、現代の中国では刑名の学が役人に悪用されて、より悪い社会になってしまっている。

道学と道教

最後に少しだけ道教の話をしておく。

私は老子道教の始祖だとばかり思っていたが、それは間違えであった。

中国、古代の民間信仰を基盤とし、不老長生・現世利益を主たる目的として自然発生的に生まれた宗教。のち、仏教への対抗上、神仙説など道家の思想、および仏教の教理儀礼が取り入れられた。5世紀前半、北魏寇謙之(こうけんし)が教祖を黄帝老子とし、張道陵を開祖として道教教団を形成した例もあるが、多くは民間信仰として発展。

出典:道教(どうきょう)とは<デジタル大辞泉(小学館)<コトバンク

もともと道教民間信仰の集合体のような雑多なもので、その上に、老子の思想を取り入れることもあれば、神仙の思想を取り入れることもある。他にも占星術・易や陰陽五行なども含まれている。

さて、更に神様も適当で三国志で有名な関羽関帝として神格化され、老子太上老君という神になっている。

道教が歴史に初めて出てきたのは後漢末の太平道(つまり黄巾賊)と五斗米道だ。彼らは秘密結社と言われるが、簡単に言えば互助組織だ。後漢末の治世が乱れた時期に生き残るために集まった集団だった。

この時、五斗米道が『老子』をテキストとして採用した。しかしその理由は、岡田英弘氏によれば、「文字とその使い方を覚えさせるというのが真相であった」*2

こういった互助組織が元になって道教の集団が各地に根付いて、さらにあらゆる思想その他を取り入れて雑多を極めた。南北朝時代に三洞・四輔という分類が為され、かなり曖昧な分類で整理されて、どうにか他の宗教と同列に語られるものになったらしい。

その後の展開はwikipedia道教のページか松岡正剛氏の該当ページが参考になると思うが、やっぱり雑多すぎて分かりにくい。

ただし、儒教とは違い、宗教として一般大衆に根付いていた。そういうわけで、中国を代表する宗教は儒教ではなく道教である

現代になると道教は大陸では中国共産党文化大革命期に「秘密結社としての性格が強いもの有り」と危険視され、否定された*3 *4。これが認められるのは1990年代に入ってからだ。しかし台湾や香港などでは熱烈な信仰ぶりが見られ、他の宗教と肩を並べている*5



秦の始皇帝は中華統一のために焚書坑儒を断行したが、現在の国家主席習近平は「民族統一」のために数十万単位のウイグル人を「再教育」という名目で強制収容所に収監している。*6


*1:前漢・宣帝の治世 - 歴史の世界宣帝 (漢) - Wikipedia参照

*2:岡田英弘/この厄介な国、中国/WAC BUNKO/2001(『妻も敵なり』(クレスト社/1997)の文庫版)/p211

*3:今枝二郎/道教NHKライブラリー/2004/第11章 現代中国の道教

*4:道教 - Wikipedia

*5:今枝氏/同上

*6:米国務省、中国のウイグル族弾圧に「深い懸念」 制裁を検討 | ロイター