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中国論② 大隈重信の『日支民族性論』 その1 大隈が本を出す原因となった「対華二十一カ条の要求」

大隈重信が『日支民族性論』という中国論本を出している。この記事ではまず、大隈がなぜ本を出版する気になったのかを書いていこう。

この記事では、大隈が本を出す原因となった「対華二十一カ条の要求」について書く。

今回は倉山満監修「大隈重信、中国人を大いに論ず 現代語訳『日支民族性論』 」*1に頼って書いていく。

「対華二十一カ条の要求」

上の現代語訳の監修をして倉山満氏はこの本に対して「現代人が読めば、「ネトウヨ」と断じるに違いない中身である」と書いている。

では、なぜ大隈はこのような本を世に問わねばならなかったのか。当時、大隈内閣は、いわゆる「対華二十一カ条の要求」で内外世論の批判にさらされていた。それに対し、大隈個人の支那観を述べるための出版という意味合いが強い。(p4、倉山氏の筆)

「対華二十一カ条の要求」とは当時の大隈内閣が袁世凱中華民国政権に突きつけた要求のことだ。

倉山氏によれば、「なお、「二十一カ条要求」との言葉自体が中華民国プロパガンダである。日本政府が突きつけたのは、「十四カ条の要求」と「七カ条の希望」だったが、「希望」の部分もいっしょにして、いかに自分たちが圧迫されているかを世界にプロパガンダしたのだった」(p6、倉山氏の筆)。

ここで問題なのは、袁世凱に「最後通牒の形式にしてくれ。そうした形で押し付けられた形にしないと私が暗殺される」などと泣きつかれてお人よしにもその通りにすると、かえって「このような要求を突きつけられた」などと世界中にプロパガンダされる始末だった。

出典:p177、倉山氏の筆

「要求」については、簡単に言えば、清国の継承国である中華民国政府に対して、日清の間で結ばれた条約その他取り決めを守ることの要求。第1号から第4号まで。中華民国が清国の継承国と諸外国から承認されるためにはこれは必須条件だった。

第5号

第5号にある七カ条は希望条項とも言われる。日本の大陸に対する権益拡大と言えるだろう(ただし、大隈の主張によれば善意だった、後述)。これが問題となった。これは秘密条項だったにもかかわらず中国側が世界に暴露した。

第5条は以下の通り。

第5号 中国政府の顧問として日本人を雇用すること、その他

  • 中国政府に政治顧問、経済顧問、軍事顧問として有力な日本人を雇用すること
  • 中国内地の日本の病院・寺院・学校に対して、その土地所有権を認めること
  • これまでは日中間で警察事故が発生することが多く、不快な論争を醸したことも少なくなかったため、必要性のある地方の警察を日中合同とするか、またはその地方の中国警察に多数の日本人を雇用することとし、中国警察機関の刷新確立を図ること[10]
  • 一定の数量(中国政府所有の半数)以上の兵器の供給を日本より行い、あるいは中国国内に日中合弁の兵器廠を設立し、日本より技師・材料の供給を仰ぐこと
  • 武昌と九江を連絡する鉄道、および南昌・杭州間、南昌・潮州間の鉄道敷設権を日本に与えること
  • 福建省における鉄道・鉱山・港湾の設備(造船所を含む)に関して、建設に外国資本を必要とする場合はまず日本に協議すること
  • 中国において日本人の布教権を認めること

出典:対華21カ条要求 - Wikipedia

これに対して第一次大戦の敵国ドイツが反対するのは当たり前だが、同盟国のアメリカも反対を表明した。アメリカは中国大陸の権益がほしかったので、日本の大陸の権益拡大を止める動きに出た。イギリスも権益拡大に懸念を表明したが、アメリカが英仏露三国に呼びかけて日中両国に協同干渉をするよう提議すると三国当局から拒絶された。

結局、日本政府は第5号を削除した形で1915年5月7日に最終通告を行い、同9日に袁政権は要求を受け入れた。袁世凱は9日を「国恥記念日」と呼んで、中国人に対して反日を煽った。もちろん自分の弱さから反日に中国人の目をそらすためである。

大隈の支那に対する思い

さて、このような経過の後に現職の大隈首相は何を思ったのか?

このたびの、わが国の対支(し)交渉は、日独戦後という区切りにおいて、日本と支那の永遠の平和の基礎を確立しようとする誠意から出たものだ。それなのに、彼らは、まったくその反対の考えを持ち、外国の勢力に頼ることで、むしろ日本の要求を緩和しようとした。

日本排斥の感情は、この3カ月の談判(交渉)の経過の中で、はっきりと見てとれた。なぜならば、談判の初期、関係両国ともに、その内容を極秘とする約束があったにもかかわらず、彼らはこれを少しも秘することなく、すべて漏らしたからである。

しかも、漏らすにしても、事実を事実として、ありのままに漏らすのならまでよい。しかし、これを誇大し、いかにも日本が強勢をもって支那を苦しめているかのように、支那の新聞や外国の通信員などに通知した。

そして、はじめのうちは、わが要求に少しずつ応じるようであったが、しだいに変化し、4月ごろより態度を変え、排斥に転じるようになった。5月1日になると、ほとんどその立ち位置を変えたかのようで、長期間にわたり忠実に交渉してきた案件の、すでに合意したものまで破った。

ついに、支那の側から、ほとんど最後通牒と言ってよいものを、わが国に送ってくるに至った。支那人の豹変の性格を、このわずか3カ月の交渉のあいだに、縮図として見せられたかのような観がある。

出典:p28-29

両者まじめに進められてきた交渉をいきなりひっくり返された上に一方的に悪者にされたて、大隈は憤慨した。

そして、大隈はこの本を出版した。「二十一カ条」の交渉の内幕と、なぜ支那人がこのような亡状(無礼な振る舞い)をするのかということを公にしたかったのだろう。

この本には「なぜ支那人がこのような無礼な振る舞いをするのか」に対する答えを中国の歴史を紐解きながら語っている。

習慣は、第二の天性であるという。この支那人固有の悪しき性質も、長いあいだの歴史で養われて今日に至り、ついに第二の天性として成立を見たのだろう。この民族性が改善されないかぎりは、その外交、政治、教育、社会、風俗の上に現われた力が、たがいに集合して、最後に支那を滅ぼさねば終わらないであろう。

出典:p32-33

中華民国は大陸からいなくなったが、代わりに中国共産党政権が誕生して現在に至る。そして、大隈の言う「第二の天性」は現在も脈々と受け継がれている。

おまけ

話はそれるのだが書き留めておく。

袁世凱中華民国政府が交渉の内容を世界に暴露した時、日本内部でもこれに反応した者がいた。

我が国の論調にも、いくつもの弱点を示すものがあった。与論(社会的合意)を代表すると見られている新聞には、支那人を惑わせる(彼らの方を持ち、期待させる)ような、ものが、たくさん現れた。こうなってくると、私は、ただ支那人だけを批判するわけにはいかない。日本にも、まだいくらか東洋流の弊害が残存していて、ことあるごとにそれが現れる。

出典:p30

しかし実際は世論のほとんどが「二十一カ条」に賛成で、反対する新聞と言えば、読売新聞くらいだった。雑誌を含めれば『第三帝国』というものと、もう一つ石橋湛山の『東洋経済新報』がある。(胆紅/一九一〇年代日本の中国論ー『東洋経済新報』を中心に(pdf )参照)

賛成派には吉野作造もいる。吉野の主張を要約すると「自分も支那には強国になってほしいがその歩みは極めて遅く、欧米列強の侵入を防ぐことは到底できない。日本の国益を考える時、日本が欧米列強に遅れを取らずに支那における権益拡大することは当然である。」

これに対して、石橋湛山は(要約)「隣国が富強になることは日本の富強になる原因になる。今回の条約でこれを遮断した。」また、経済的利益から領土拡張、利権獲得に反対もした。まさに小日本主義の主張である。(前掲のpdf参照)

歴史は石橋湛山に軍配を上げたが、当時の石橋湛山の思想の根底には、当時の支那人を昔の幕末維新の志士たちと同一視して、同情を寄せていたらしい。今で言うところの親中派だったということになる。(岡本隆司/近代日本の中国観/講談社選書メチエ/2018/p23-32)

ただし、石橋も他の当時の一般的な日本人と同じく、当時の支那を「文明国」だとは思っていなかった。

支那国民が旧清国を倒して以来16年余の歴史は、公正に考えて、何処にか支那を世界の文明国と認めしむる力があったか。外国人に安んじて支那の裁判、支那の税制、支那の警察に其生命財産を託し得ると認めしむる証兆があったか。(「支那は先ず其実力を養うべし」『石橋湛山全集』6)

出典:岡本氏/p25

上の論説を書いたのは1928年に蒋介石政権が列強各国に対し、不平等条約・在華権益の破棄を求めた時のことだ。列強国が不平等条約を結んだのは支那の裁判・税制・警察に身の安全を任せることなどできなかったからだ。

石橋は、日本がやったように列強国に認められるほどの「実力」をつけてから不平等条約の撤廃を求めなさい、と主張している。(p26)

もうひとり名前を挙げるとすれば支那通として有名だった内藤湖南だが、彼の言説は頓珍漢としか思えない。要約はここには書かない。先程示したpdfで読める。彼は同時代の支那の現状や人々に関心がなかったようだ。(岡本氏/p105-110)



*1:祥伝社/2016