歴史の世界

中国論① 福澤諭吉の『脱亜論』

(この記事は中国論というより、なぜ福澤が『脱亜論』を書くに至ったのか、が主題。)

日清戦争の10年ほど前、福澤は朝鮮の独立と近代化に傾注していた。しかし彼が支援していた朝鮮独立党(開化派)のクーデターが失敗に終わり、朝鮮政府が彼らとその親族の悲惨な処罰をした。

福澤はその報を聞き、『脱亜論』を書いた。朝鮮と支那に対する絶縁状だ。

朝鮮と支那は日本人とは全く別物で、近代化するのは極めて難しい。彼らと互いに援助することは毛ほども役に立たず、むしろ彼らと交わることで欧米人から同種だと間違われるかもしれない。ゆえに、彼らとは縁を切ろう、というものだ。

ただし、絶縁状と言っても日本国が本当に中朝と付き合わないわけにはいかないので、福澤は「心の中で、謝絶するものである」というエクスキューズを書いている。

さて、この文章に至るまでの背景を書いて、その後『脱亜論』の一部を見ていこう。

同床異夢

幕末の志士の中では、欧米列強と対抗するために日本は支那と朝鮮と同盟をすべきだ、という論があった。例えば勝海舟がそうだ*1。いっぽう、吉田松陰のように朝鮮を属国化しようという論もあった*2

明治の世になると、まず前者の論が出てくる。

1874年(明治7年)の台湾出兵の際の天津条約交渉に参加した大久保利通は、李鴻章から「日本、支那、朝鮮等東洋の団結」を目的として相互に語学校を開設することを約束していた。

出典:興亜会 - Wikipedia

この流れの中でアジア主義の総合機関「興亜会」が設立される。リンク先によれば、アジア主義の「原点であり、源流である」。

だがこの流れの初めから日本と清国は同床異夢だったかもしれない。日本は朝鮮が清の属国状態から独立して日本のように富国強兵化することを望んだ。いっぽう、清は台湾出兵の後、日本を仮想敵国とした北洋艦隊を創設した。朝鮮の宗主権を手放す気など無かっただろう。

朝鮮半島での近代化への活動が活発化すると日清の対立は顕在化して引くに引けない状況になっていく。

福澤と金玉均の出会い

以下の本を頼って見ていこう。

決定版・脱亜論 今こそ明治維新のリアリズムに学べ

決定版・脱亜論 今こそ明治維新のリアリズムに学べ

  • 作者:利夫, 渡辺
  • 発売日: 2017/12/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

1881年明治14年)、この当時李氏朝鮮は近代化からほど遠い体制だったが、国王高宗は日本の近代化の成功に興味を持ち、「紳士遊覧団」を結成して官僚たちを日本へ派遣し近代化を学ぶように命じた。この団体の中の一人、魚允中が従者2人福澤に乞うて預けた。二人は福澤邸に寄宿しながら慶應義塾にも通うことになった。この2人の留学生が機縁となり、その後 朝鮮人が福澤邸を訪れることが多くなる。(p55-56)

福澤が彼らから聞く朝鮮の現状は、門地門閥によって身分が固められ、社会的上昇など思いも及ばなかった「30年前の日本」である。家督を継いだ福澤が困窮に耐えられず家財を売却し、母と姪を故郷に残し慚愧の思い出中津藩を後にし大阪に出てきたのは、「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」と記して旧制度にたぎる怒りを抑えきれなかったからだと、『福翁自伝』にはある。

福澤は自分の過去を朝鮮人留学生の中に見出し、少なくとも自分を頼ってくる朝鮮人には救いの手を差し伸べるのは自分の責だ、と感じるようになった。政権獲得に参加しなかったものは政権に入る資格なしとして、幕臣福澤は明治維新を傍観者としてやり過ごしたものの、みずからの思想の実現の場をどこかに求めていた。その場を福澤は朝鮮に「発見」し、朝鮮の開化派もまた福澤に支援を接岸したのである。

出典:渡辺利夫/決定版・脱亜論 今こそ明治維新のリアリズムに学べ/扶桑社/2017

この流れに金玉均がいた。彼は「紳士遊覧団」の帰国者から話を聞いて興味を持ち、その後 国王の命により訪日を果たした。訪日の期間中は福澤の別邸に寄宿しながら日本の実情を観察した。また福澤の紹介で井上馨渋澤栄一後藤象二郎大隈重信伊藤博文などと面会した。

壬午事変勃発

金玉均は一旦見聞を終えて帰国しようとしたが、その途上で壬午事変の報を受ける。

壬午事変は攘夷思想を持つ高宗の実父大院君が起こしたクーデターだが、この動きにすばやく動き鎮圧したのが袁世凱率いる清軍3000兵だった。反乱軍鎮圧に成功した清は、漢城府に清国兵を配置し、大院君を拉致して中国の天津に連行、その外交的優位のもとで朝鮮に圧力をかけ、閔氏政権を復活させた*3

清国は、親日派勢力を排除して朝鮮半島への干渉を強め、朝鮮に対する宗主国の権勢を取り戻して近代的な属国支配を強めた[19]。従来、朝鮮の内政には関与しなったが、清国側とすれば台湾・琉球・朝鮮に対する日本の攻勢に対抗したものであり、日朝修好条規を空洞化させて朝鮮を勢力圏に取り込む姿勢を明らかにしたのである[13]。李鴻章は北洋大臣として朝鮮国王と同格の存在となり、朝鮮の内政・外交は李鴻章とその現地での代理人たる袁世凱の掌握するところとなった。

出典:壬午軍乱 - Wikipedia

これに対して日本の世論と福澤はどのように反応したのか。

清朝三国提携を模索する意見の多かった言論界でも変化がみられた。1882年12月7日『時事新報』社説「東洋の政略果して如何せん」において福沢諭吉は「我東洋の政略は支那人の為に害しられたり」と述べ、清国は日本が主導すべき朝鮮の「文明化」を妨害する正面敵として論及されるようになった。このような状況を打開すべく、福沢は金玉均ら独立党の勢力挽回に期待をかけたのである。

出典:壬午軍乱 - Wikipedia

以下は上の社説の後に続く文章。

然ば則ち之に処するの法如何して可ならん。我輩の所見に於ては唯一つ法かすみやかここあるのみ。即ち退(しりぞい)て守(まもり)て我旧物を全うするか、進(すすん)で取て素志を達するか。今日の進退速(すみやか)に爰(ここ)に決心すること最も緊要なりと信ず。

出典:渡辺氏/p61

渡辺氏曰く、後の文章は金玉均らに福澤が繰り返し諭した言葉だった。

この後、李氏朝鮮金玉均や朴泳孝ら日本と近代化を目指す開化派(独立党)と親清勢力(事大党)と中立派に分裂したが、政権は清軍をバックにした事大党の下にあった。開化派は劣勢だった。

金玉均のクーデター・甲申政変

1883年8月、清仏戦争が勃発し、京城の総勢4500名いた兵力の内2000名が清国内に移った。これをチャンスと見た開化派はクーデターを企画し1884年12月に実行する。クーデターは一応せいこうしたものの、3日しか持たなかった。袁世凱率いる清軍1500名に京城を囲まれて為す術がなかった。これに対して日本兵は130名で、情勢を変えることはなかった。(甲申政変)

金玉均は辛くも逃げて日本に亡命したが、朝鮮政府は開化派の残党と三親等の一族処刑して遺体を晒し者にした*4

この報を聞いた福澤は1885年(明治18年)2月23日と2月26日に、「朝鮮独立党の処刑(前・後)」という論説書いた。以下はその一部。

人間娑婆世界の地獄は朝鮮の京城に出現したり。我輩はこの国を目して野蛮と評せんよりも、むしろ妖魔悪鬼の地獄国といわんと欲する者なり。しかしてこの地獄国の当局者は誰ぞと尋ねるに、事大党政府の官吏にしてその後見の実力を有する者はすなわち支那人なり。我輩は千里遠隔の隣国におり、もとよりその国事に縁なき者なれども、この事情を聞いて唯悲哀に堪えず、今この文を草するにも涙落ちて原稿紙を潤おすを覚えざるなり。

  • 新字体、平仮名、現代仮名遣いに改め、適宜句読点、改行を施した。
  • 一部の漢字を現代風に直した。(吾々→我々、勉メ→努め)
  • 一部の固有名詞を現代風に直した。(歴山王→アレキサンダー王)

出典:朝鮮独立党の処刑 - Wikisource

金玉均は十年日本での亡命生活の後、上海で暗殺された(1894年)。「遺体は清国軍艦咸靖号で本国朝鮮に運ばれて凌遅刑に処されたうえで四肢を八つ裂きにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された」*5

脱亜論

「朝鮮独立党の処刑(前・後)」の約3週間後、1885年(明治18年)3月16日の『時事新報』に脱亜論を書く。

以下に脱亜論の現代語訳を途中から引用する。なお、読みやすさのために、私が勝手に段落分けした部分がある。

わが日本の国土はアジアの東端に位置するのであるが、国民の精神は既にアジアの旧習を脱し、西洋の文明に移っている。しかしここに不幸なのは、隣国があり、その一を支那といい、一を朝鮮という。この二国の人民も古来、アジア流の政治・宗教・風俗に養われてきたことは、わが日本国民と異ならないのである。

だが人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗教・風俗のなかにいながら、遺伝した教育に違うものがあるためか、日・支・韓の三国を並べれば、日本に比べれば支那・韓国はよほど似ているのである。この二国の者たちは、自分の身の上についても、また自分の国に関しても、改革や進歩の道を知らない。交通便利な世の中にあっては、文明の物ごとを見聞きしないわけではないが、耳や目の見聞は心を動かすことにならず、その古くさい慣習にしがみつくありさまは、百千年の昔とおなじである。

現在の、文明日に日に新たな活劇の場に、教育を論じれば儒教主義といい、学校で教えるべきは仁義礼智といい、一から十まで外見の虚飾ばかりにこだわり、実際においては真理や原則をわきまえることがない。そればかりか、道徳さえ地を掃いたように消えはてて残酷破廉恥を極め、なお傲然として自省の念など持たない者のようだ。筆者からこの二国をみれば、今の文明東進の情勢の中にあっては、とても独立を維持する道はない。幸い国の中に志士が現れ、国の開明進歩の手始めに、われらの明治維新のような政府の大改革を企て、政治を改めるとともに人心を一新するような活動があれば、それはまた別である。もしそうならない場合は、今より数年たたぬうちに亡国となり、その国土は世界の文明諸国に分割されることは、一点の疑いもない。なぜならば、麻疹と同じ文明開化の流行に遭いながら、支那・韓国の両国は伝染の自然法則に背き、無理にこれを避けようとして室内に閉じこもり、空気の流通を遮断して、窒息しているからだ。

「輔車唇歯」とは隣国が相互に援助しあう喩えであるが、今の支那朝鮮はわが日本のために髪一本ほどの役にも立たない。

のみならず、西洋文明人の眼から見れば、三国が地理的に近接しているため、時には三国を同一視し、支那・韓国の評価で、わが日本を判断するということもありえるのだ。例えば、支那、朝鮮の政府が昔どおり専制で、法律は信頼できなければ、西洋の人は、日本もまた無法律の国かと疑うだろう。支那、朝鮮の人が迷信深く、科学の何かを知らなければ、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思うに違いない。支那人が卑屈で恥を知らなければ、日本人の義侠もその影に隠れ、朝鮮国に残酷な刑罰があれば、日本人もまた無情と推量されるのだ。事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。喩えるならば、軒を並べたある村や町内の者たちが、愚かで無法、しかも残忍で無情なときは、たまたまその町村内の、ある家の人が正当に振るまおうと注意しても、他人の悪行に隠れて埋没するようなものだ。

その影響が現実にあらわれ、間接にわが外交上の障害となっていることは実に少なくなく、わが日本国の一大不幸というべきである。

そうであるから、現在の戦略を考えるに、わが国は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないのである。むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退をともにし、その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だからと特別の配慮をすることなく、まさに西洋人がこれに接するように処置すべきである。悪友と親しく交わる者も、また悪名を免れない。筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。

出典:脱亜論 - Wikisource (翻訳:三島堂)

この文章に対して上述の渡辺氏は次のように評している。

文章をそのままたどっていくと、相当に激しい言説がストレートに表現されているようにみえる。一つには、福澤自身が他の文章でもそうだが、自己の主張を誤りなく伝えるために、婉曲な表現を好まず、逆に、とかく誇張してものごとを記述するという文章上の性癖があったということ、二つには、甲申事変に際して朝鮮政府が行った、福澤の想像をはるかに超える余りにも残虐な開化派の弾圧に憤怒の情を胸中に満たしていたこと、これが直接の原因であろう。[中略]

朝鮮は開化派のクーデター1つによって変わるほど簡単な隣国ではない。これを機に朝鮮開化派への心情的な思い込みはやめ、西洋人が外国をそうみなしているようなパワーポリティクスの論理にめざめて、朝鮮にも対処していこう。そういうある種の自省を、この文章の中に読んだほうが正しい。

渡辺氏/p87

福澤はこの事件が起こるまで、朝鮮人と日本人は そうは違わないと思っていたのかもしれない。それは一衣帯水論というより、外国を知らなかったというべきか。現在も日本国民の中で海外をよく知る人は少ないとは思うが(私も知らない)、当時は鎖国からやっと抜け出したばかりの時代だった。

おまけ:『世界国尽』(せかいくにづくし)

福澤は1869年(明治2年)の初冬に『世界国尽』を出版した。世界地理の入門書である。地理以外に、その国の歴史を説明している箇所もある。 (世界国尽 - Wikipedia )。

この本の中に支那について書いてある。

支那の政治の仕組みは、西洋の言葉で「ですぽちつく*1」というもので、ただ上に立つ人の思い通りに事が進む状態のため、国中の人は皆、いわゆる奉公人の根性になり、「帳面前さえ済めば一寸のがれ*2」という考えで、本当に国のためを思う者がなく、遂に外国から軽くみられるようになってしまいました。すでに天保年間、英吉利(いぎりす)に打ち負かされた時も、賠償金を払った上に、香港の島を英吉利に渡し、広東、廈門(かもん)、福州、寧波、上海の5ヶ所の港を無理に開かせられ、その後もふみつけられているようです。

*1. でぽちつく(depotic) 独裁的な。専制的な。
*2. 帳面前さえ済めば一寸のがれ 「帳面前」は帳面に記した状態。表向きさえ良ければ、その場を取り繕って責任をのがれること。

出典:齋藤秀彦 編著/福沢諭吉の『世界国尽』で世界を学ぶ/ミネルヴァ書房/2017/p13-14




福澤のいう「脱亜」は支那と朝鮮のことを指すのであり、他のアジアの国々は関係ない。
福澤は「脱亜入欧」とは言ってはいない。