歴史の世界

戦後直後の日本経済について③ 石橋湛山の経済政策方針

前回からの続き。

傾斜生産方式と復興金融金庫と復金インフレの問題設定

以下は通説になっている(なっていた?)説明。

終戦後の経済復興策として1946年12月に第1次吉田内閣が傾斜生産方式を閣議決定した。[中略]それを賄う目的で1947年1月に復興金融金庫が設立された。

復興金融金庫の融資資金は復興金融債権(以下、復金債)の発行により調達された。しかし、その債権の多くが日本銀行の引き受けるところとなった。これにより市場に供給する貨幣の量が拡大してその価値が下がることとなり、インフレーションが引き起こされた。これが復金インフレである。

出典:復金インフレ - Wikipedia

しかしこの説明はいろいろと問題がある。

ここでキーマンとなるのが石橋湛山だ。

石橋湛山の経済政策

石橋湛山は第1次吉田内閣の大蔵大臣だった。この内閣は1946年(昭和21年)5月22日から1947年(昭和22年)5月24日まで続く。

この 21 年 から 23 年 の ハイパーインフレ の 時代 の 過半 を、 蔵相 として 務め た のが 石橋湛山 で あっ た。 22 年 5月 に 石橋 は 公職追放 を 受け た が、 23 年度 も 基本 的 に 石橋 の 財政 路線 が 踏襲 さ れ て いる。 その ため、 当時 の 石橋 は インフレ の 責任者 として 厳しく 批判 さ れ た。

出典:田中 秀臣. 脱GHQ史観の経済学 エコノミストはいまでもマッカーサーに支配されている (PHP新書) (Kindle Locations 691-693). 株式会社PHP研究所. Kindle Edition.

石橋は傾斜生産方式と復興金融金庫を生み出した責任者だが、これらを実際に指導した時期は短かった。それでも彼の意図とこれらの方策は継承された。だから批判(もしくは評価)されるべきは彼で間違いない。

吉田第一次内閣の直前の経済状況

石橋が大蔵大臣になる前、つまり吉田第一次内閣の直前もインフレの状態だった。

すでに書いたような物不足によるインフレに加えて、戦後処理の膨大な財政支出が重なってさらにインフレが加速した。

政府は価格統制をして対応しようとしたが、これはヤミ市を発生させるだけで何の成果も生み出さなかった。その他の政策も失敗し続けたまま、吉田内閣に政権を譲った。

石橋大蔵大臣の経済政策の方針

吉田第一次内閣となり、石橋大蔵大臣が誕生する。

石橋はまず初めに、闇市場へのインセンティブをつくっている価格統制をより柔軟に運用することから始めます。具体的には、1946年6月以降、公定価格は毎月改定されるようになりました。

また、闇市価格より著しく安く設定されていた公定価格を実勢価格に調整するために支給されていた価格調整補給金が増額されます。

出典:上念司/経済で読み解く日本史 大正・昭和時代/飛鳥新社/2019/p210

石橋が価格統制を撤廃しなかった理由は、そうすることをGHQが拒否し続けていたからだ。実のところ、前政権でも価格統制政策は経済正常化どころか悪化させることに気づいていたのだが、政策変更をGHQに拒否されていた。

石橋はこの状況に対応するために、「価格統制をより柔軟に運用」した。つまり「骨抜き」にすることを企図したということだ。GHQが日本の弱体化を気としているのだから、狐と狸の化かし合いに勝たなければならない。

次に1946年12月に傾斜生産方式が閣議決定され、翌年1月に復興金融金庫が設立される。傾斜生産方式が「化かし合い」のための方便であったことはすでに書いた。そして復興金融金庫もおそらくは方便だった。

復興金融金庫 の よう な「 政策金融」 が、 特定 の 産業 の 振興 や 経済 発展 の ため には 不可欠 だっ た、 と 主張 する 人 も い ます。 しかし、 今、 述べ た よう に、「 お金 を ばらまい た」 こと は 効果 が あっ た ものの、 特定 の 産業 を 伸ばし、 成功 さ せる という 政策金融 の 本来 の 目的 に関して は、 戦後 の 復興金融金庫 は 実際 には、 それほど 役に立ち ませ ん でし た。

出典:高橋 洋一. 戦後経済史は嘘ばかり 日本の未来を読み解く正しい視点 PHP新書 (p. 31). 株式会社PHP研究所. Kindle Edition.

おそらくは、石橋の意図は、名目的に「傾斜生産方式を制作するために復興金融金庫を設立した」ということにして、その本当の目的は「 お金 を ばらまい た」 こと の方にあった。

傾斜生産方式のおかげで物資が国内に流入するようになり、次は市場に資金を流入しなければならなかった。カネがなければ商売も設備投資もできない。逆を言えば、カネさえあればそれらが復活し、生産力(供給力)が増えて、最終的にインフレが安定する方向に向かった(ただし、物資、資金ともに十分でなかったので、経済復興も十分とはいえなかった。

このような石橋の方針は功を奏した。この方針は石橋が(内閣交代のために)大臣から退いた後も継承された)。

GHQの対応への疑問

しかし、このような方針をなぜGHQが許したのかが疑問が残る(GHQは日本を弱体化しようとしていた)。その理由として考えられるのは2つ。

  • GHQが経済政策についての知識が足りてなかった。
  • 米ソ対立が表面化する前であったが、この時期はすでに流れが出来つつあった。

1つ目。当時のGHQの中で権力を振るっていたのは民政局(Government Section、通称:GS)だった。倉山満氏によれば、彼らはニューディーラーと呼ばれる社会主義者だったが、「本国では相手にされないオチコボレたち」だった *1。 倉山氏によれば、当時の大蔵省主計局長だった福田赳夫によってG2を手玉にとった。(余談だが、現在の日本の国会議員たちも財務省に手玉に取られている)

2つ目。いわゆる「逆コース」。この話はすでに書いた。ただし、民政局を手玉にとった福田赳夫は民政局によってパージされたことを考えれば、くだんの方針を許可した理由が「逆コース」というのは間違っていると判断しなければならない。

よって、民政局がポンコツだったので、日本経済はなんとか食いつなげるレベルを保つことが出来たというべきだろう。

経済回復の始まり

1947年5月、第一次吉田内閣の総辞職により石橋は大蔵大臣を辞する。しかし次の政権である片山内閣は石橋の経済対策の方針を継承した。和田みき子氏によれば、この継承を促したのはGHQだった *2

片山内閣期《昭和22年(1947年)5月-昭和23年(1948年)3月》から経済回復が始まる。

1948 年の生産の回復はほかに重要な要因がふたつあった。ひとつは企業にとっての深刻な不確定要因であった「集中排除、独占禁止、賠償撤去などの諸問題について緩和の方針が示され・・・これら企業の生産意欲を喚起」(注6)したことであった。それにもまして重要であったのは、1947 年8 月から制限つきながら民間貿易の再開が許されたことと、1948年9 月からイロア(経済復興援助資金)によって原材料輸入に対する援助が始まったことである。

(注6)経済企画庁(1952)『昭和27 年度年次経済報告』6 頁。

出典:《PDF》大来洋一/傾斜生産方式は成功だったのか

上の要因の中では、「イロア」が特に重要だった。「イロア」に比べれば、他の要因は大して重要ではなかった。

「イロア」は通常「エロア資金」または「エロア援助」と呼ばれる。

エロア資金(エロアしきん)とは、占領地域経済復興資金 (EROA Fund:Economic Rehabilitation in Occupied Area Fund) のことである。

救済的政策を付与されたガリオア資金と共に、第二次世界大戦終結後、アメリカ合衆国政府の軍事予算より拠出された。経済復興を目的としたため、石炭や鉄鉱石、工業機械など生産物資の供給のために充当された。

出典:エロア資金 - Wikipedia

ガリオア資金はエロア資金より前の援助で、食料などの生活物資を援助するものだったが、経済を安定させる最低限度には全く届いてはいなかった。アメリカが日本弱体化を狙っていたので当然だ。

そして、上記の引用の要因はアメリカの方針転換(逆コース)を意味する。日本の復興はこの方針転換によって始まったのだ。

この大きな流れからすれば、石橋の経済政策方針は相対的に小さな評価になってしまう。そして石橋が設立した復興金融金庫の復金債による過度のインフレが石橋の評価をさらに下げている。

次回は復興金融金庫について書く。