歴史の世界

ユダヤ教成立の歴史⑨ ヤハウェ信仰の危機と一神教の誕生

前回からの続き。

ユダ王国滅亡とヤハウェ信仰消滅の危機

ユダ王国が滅亡し、イスラエル民族は自分たちの国を失った。これは民族と彼らが信仰した神の消滅の危機でもあった。

古代オリエント世界においては、戦争とは国と国との戦いであると同時に神々同士の戦いでもあり、敗北とは自分の神(々)が敵国の神々に敗れたということを意味した。それは、自分の神の無力と敗北として解釈され得るものであった。

出典:山我哲雄/一神教の起源/筑摩書房/2013/p304

先に滅亡した(北)イスラエル王国民は強制移住などで散り々々になり「失われた十氏族」と言われるように民族としては消滅してしまった。"元"ユダ王国民の中でもヤハウェ信仰を捨ててしまった人々は少なくないだろう。

ヤハウェ信仰の指導者たちはイスラエル民族に対して信仰の維持を訴えるが、その中で受け入れられた(生き残った?)のが、ヨシヤの信仰改革を推し進めた人たちの思想継承者たちだった(彼らと違う信仰のあり方を説いたグループもいたようだ)。山我氏は彼らを申命記史家と呼んでいる。

彼ら申命記史家は自国の滅亡を(神の無力ではなく)神からの天罰とした。すなわち、イスラエルの民がヤハウェの言うことを聞かなかったために滅亡させた、と訴えた。

ここで山我氏は社会学マックス・ウェーバーの言う「苦難の神義論」を引き合いに出して説明する。

すなわち、人が大きな苦難に見舞われた場合、それが不条理であればあるほど、受け止めたり耐え忍ぶことが困難になる。しかし、その苦難の理由や意味が何とか納得でき、「腑に落ちる」ような場合には、それを耐え忍んだり克服することがより容易になるのである。それは同時に、破局と苦難の責任をすべてイスラエルの側に帰すことにより、ヤハウェを免罪しようとする弁神論でもある。その究極の目的は、言うまでもなく、前586年の破局ヤハウェの敗北や無力さを示すものと見る「誤解」を打ち砕き、ヤハウェのみへの信仰を保たせること、すなわち信仰の危機の克服である。(p334)

かなり苦しい論にみえるが、この論は前述の通りヨシヤの信仰改革の思想の路線にあるものだ。

兎にも角にもこの論が今現在のユダヤ教の根幹にある。

一神教の誕生

さて、以上のような論、以上のような状況の中で、ついに一神教の論が誕生する。

「わたしの前に神(エル)は造られず、わたしの後にも存在しない。
わたしこそ、わたしこそヤハウェである。わたしのほかに救う者はない。
わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え、知らせた。
あなたたちのもに、ほかにはいない(エン・ザール)ことを。
あなたたちはわたしの証人である、とヤハウェは言われる。
わたしが神(エル)である。」(イザ四三8-12)

この言葉は「イザヤ」が言ったことになっているが、実際は《前539年ペルシアによって新バビロニア王国が倒され、ユダ王国の捕囚民がバビロンからユダに帰還を許される時期》 *1 に活躍した無名の預言者たちの中の一人の言葉だ。彼らをまとめて「第二イザヤ」と呼ぶことになっている。

国が滅び、ヤハウェ信仰が消滅しようとしている危機に、「第二イザヤ」はバビロン捕囚に対して以上の言葉を投げかけた。

この言葉は彼らに信仰をつなぎとめるための「レトリック」だった(p355)。口からでまかせというのは言いすぎかもしれないが。

そして「レトリック」が一神教を産み出した。このレトリックが受け継がれて今日に至る土台はヨシヤの信仰改革の思想だ。

この思想によれば、イスラエル民族を罰するためにヤハウェアッシリアを動かすこともできる。つまりヤハウェは世界を動かすことができるとされている。

しかし山我氏は一神教の考えの誕生は「パラダイムの転換」または「突然変異」だったと書いている。

唯一神観という発想は]おそらく明確な形ではそれまで誰も考えたことのない種の突破、革命があることは明確である。[中略]

まさに捕囚における信仰の深刻な危機を克服させる、「環境適応力」のあるものであったと言えよう。(p354-355)

「バビロン捕囚」の時期には以上のような考えを宣教する人々とは違う考えを持った人々もいたようだが、それらの信仰は消滅したようだ。それらは、山我氏の言い回しを借りれば、淘汰されたということだ。そして一神教に「進化」したヤハウェ信仰はユダヤ教として現在に至る。

そしてヤハウェ神は"イスラエル民族だけ"の神ではなくなり、全世界の人々の神となり、その結果、キリスト教イスラム教が生まれた。