歴史の世界

エジプト第20王朝 (新王国時代最期の王朝)

前回からの続き。

以下は第20王朝のファラオの一覧。ほとんどがラメセス(ラムセス)を名乗っているのでラメセス王朝と呼ばれることもある。

前1185 - 1182年頃 セトナクト
前1182 - 1151年頃 ラメセス3世
前1151 - 1145年頃 ラメセス4世
前1145 - 1141年頃 ラメセス5世
前1141 - 1133年頃 ラメセス6世
前1133 - 1126年頃 ラメセス7世
前1133 - 1126年頃 ラメセス8世
前1126 - 1108年頃 ラメセス9世
前1108 - 1098年頃 ラメセス10世
前1098 - 1070年頃 ラメセス11世

出典:ファラオの一覧 - Wikipedia(一部改変)

初代セトナクト

第20王朝の初代はセトナクトだが、この王が即位の経緯も治世の3年に何をしたかも分かっていない。

セトナクトに関する記録は彼の即位の65年後の文書「大ハリス・パピルス」(後述)と呼ばれるものにある少しだけの記述だ。

これによれば以下のようになる(要約)。

第19王朝末期に王朝の権力は喪失して混乱が続いた。これに乗じてイルスというアジア人(シリア人)が反乱を起こして支配した(支配の範囲については書かれていない)。彼は民衆の財産を略奪し、神殿に貢納しなかった。
そしてイルスを倒したのがセトナクトであった。その後、彼自身が王となり、エジプトのすべての秩序を回復した。

ただしこの記述を補強する証拠は何も無いため、歴史として確定されていないようだ。

大ハリス・パピルス

大ハリス・パピルスは貴重な資料であり現在は英国博物館所蔵。 *1

テーベの王家の谷のデル・エル・マディーナ *2 の とある墓で発見された4点のパピルスをコレクターであるハリス *3氏が買い取った。この4点のうち最も有名なものが大ハリス・パピルス *4 と呼ばれるものだが、単に「ハリス・パピルス」といえば、このパピルスを指す。

この文書(パピルス)は、もとはラメセス3世の葬祭殿の公文書館に保管されていたものということだが、最終的に村人の墓にあった経緯は分かっていない *5

ラメセス3世の没した際の日付が書かれているこの資料の大部分は奉納品や祭礼行事などの神殿に関するもので、歴史的な記録は一部に過ぎない。

その記録は(セトナクトのことも前置きとして書いているが)ラメセス3世の治世の記録である。

"最後の偉大な王"ラメセス3世

この王朝で詳しく分かる王様はラメセス3世だけだ。彼は"最後の偉大な王"と呼ばれ、その後、エジプトはオリエント世界の覇権国の座から転げ落ちて再び蘇ることはなかった。

ラムセス3世の戦争

さて、新王国時代の"偉大な王"は国外に遠征して名を残したが、ラメセス3世にはその余裕がなかった。彼は国外からの侵略から国を守りきったことで英雄になった。

ラメセス3世の治世のうち、5年から11年に3度の大きな(被)侵略戦争があった。

即位5年の敵はリビア人。リビア方面の複数の部族が連合してエジプトに攻め込んだが、ラメセス3世はこれらを無難に撃退した。

しかし即位8年の敵は大規模なものだった。これが有名な「海の民」だ(詳細は次回書く)。軍隊だけでなく、女子供と家財道具を引っさげて、移住を意図とした侵略だった。

敵は陸戦・海戦の両方で攻め込んだが、エジプト軍はまず陸で勝利を収め、海戦はデルタ・ナイルの河口で迎え撃って勝利した。

そして11年目の戦争は再びリビア人だった。5つの部族連合。彼らもまた移住を意図した侵略だった。エジプト軍はこれに勝利し、二千余を殺害、二千五百余を捕虜とし *6 、家畜その他の財産はカルナック神殿に寄進した。

ただし、これら捕虜たちはエジプト内の定住を許されたらしく、彼らの末裔が後世に王朝を建てることになる。

海の民とリビア人との戦争についてはラメセス3世の葬祭殿の壁や石碑に絵や文書で詳細に記録されている。

世界初のストライキ

記録に残っている最古のストライキが治世29年に起こった。この記録はトリノストライキパピルス(Turin Strike Papyrus*7 と呼ばれる文書に書かれている。

前述のデル・エル・マディーナは王家の谷の職人の村だったが、彼らは給料として食料が配給されていた。しかしこの配給が滞ったため、村人は山を越えてトトメス3世の葬祭殿の背後に座り込みストライキを行なった。 *8

このようなストライキは治世に複数回あった *9が、その原因は資料には書かれていない。歴史家・研究者たちによると、為政者/役人の腐敗、不作による作物の高騰、寄進し過ぎや建築物の建て過ぎによる財政の逼迫などが挙げられている。

ラムセス3世以降の王朝の凋落を見るとどれもありそうだ(歴史家・研究者たちもそれを逆算して推測しているのだが)。たとえば、寄進により潤ったカルナック神殿は王朝よりも富と権力を持つようになる。また、為政者/役人の腐敗は王の暗殺(後述)とつながるかもしれない。

いずれにせよ、このストライキはラムセス3世以降の王朝の凋落の始まりのような位置づけの事件であったようだ。

暗殺

暗殺については《ラムセス3世 - Wikipedia》に詳しく書かれている。

後継者争いの中で暗殺は決行され、即死したかしばらく経ってから死亡したか分からないが、暗殺は成功してしまった。その後、裁判が開かれ連座を含め多くの者が死刑に処された。

これにより31年間の治世が終わった。

ラメセス3世の死後

ラメセス3世の死後、彼の5番目の王子ラメセス4世が王となった。

ラメセス4世(在位前1153~46年ころ)以降、ラメセス11世まで、80年強のあいだにラメセスの名をもつ王が8人相次いで即位した。在位機関は9世と11世を除けば、いずれも10年以下で、親子関係の不明な場合も多い。官僚の不正、飢饉、物価騰貴、リビアの襲撃などが相次ぎ、国内は混乱が支配している。

出典:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p584(尾形禎亮氏の執筆部分)

凋落と王墓盗掘

王墓盗掘は、新王国時代以前から横行していた。だいたい王家の谷が隔離・警備されていたのはそれらから墓を守るためだ。

ラムセス9世の治世16年に国家を揺るがすほどの盗掘事件が発生した。隔離・警備されているはずの王家の谷で多数の王墓内の遺物が根こそぎ盗まれていた。この事件の調査報告については現代にまで10件以上の「墓泥棒のパピルス」が遺っているという。 *10

そして最期の王ラメセス11世にいたっては、王朝自身が盗掘まがいのことをしていたようだ。

[ラメセス11世の]墓は例によって未完成で放棄された。しかし、墓にあったがらくたの中から見つかった埋葬に関連する遺物片などからみると、この墓は、古(いにしえ)の王のミイラを他のカシェ[盗掘からミイラを守る隠し場所--引用者]……に移送する途中、金目のものを取り外すための作業場になっていたらしい。衰えていた国家財政を支えるためである。

出典:クレイトン氏/p211

なぜ以上の行為がラメセス11世政権の犯行だと結論付けられたのか疑問に思うところだが、もはや王朝が王墓盗掘自体を防ぐことはできないほど弱体化していたことは理解できる。

第20王朝(と新王国時代)はラメセス11世の死とともに終わるのだが、この終わり方すらもよく分かっていない。ただし、ラメセス11世死去の前にテーベでアメン大司祭国家と呼ばれる勢力が寄進による莫大な財力を背景に独立状態となっていた(上エジプトを支配)。ただしこの勢力は「事実上の国家」であって正式な国家としては認められていない(ナンバリング外の国家)(詳細は別の記事で書く)。

新たな第21王朝(この王朝成立の詳細の不明)とアメン大司祭国家は「第3中間期」あるいは「末期王朝時代」にカテゴリーされる(研究者によって異なる)。これについては別の記事で書く。



*1:Papyrus Harris I - Wikipedia

*2:王家の谷専門の職人とその家族が住む村。墓の秘密がバレないように(盗掘防止の為)、彼らは隔離されていた。

*3:Anthony Charles Harris - Wikipedia

*4:またはPapyrus Harris I

*5:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p213

*6:大城道則/古代エジプト文明/選書メチエ/2012/p153

*7:Records of the strike in Egypt under Ramses III, c1157BCE

*8:世界の歴史①人類の起原と古代オリエント/中公文庫/2009 (1998年出版されたものの文庫化) /p581(尾形禎亮氏の執筆部分)

*9:尾形氏/p582、ラムセス3世 - Wikipedia

*10:ピーター・クレイトン/古代エジプトファラオ歴代誌/創元社/1999(原著は1994年出版)/p221