歴史の世界

エジプト第3中間期① エジプト第3中間期の説明/アメン大司祭国家

古代エジプト文明の黄昏。

エジプト第3中間期

第20王朝の終わりを以って新王国時代が終わる。そして第3中間期が始まる。

新王国時代では、エジプトはオリエント世界の覇権国家だったが、第3中間期からは国内は混乱が治まらずに国外からの侵略の対象となってしまった。長く続いた栄光ある古代エジプト文明はこの衰退から復活することはなかった。

この「中間期」が終わると次は「末期時代」が始まる。この時代は他国の支配下にある時代だ。

アメン大司祭国家

前1080 - 1074年頃 ヘリホル
前1074 - 1070年頃 ピアンキ
前1070 - 1032年頃 パネジェム1世
前1054 - 1046年頃 マサハルタ
前1046 - 1045年頃 ジェドコンスエフアンクウ
前1045 - 992年頃 メンケペルラー
前992 - 990年頃 スメンデス2世/ネスバネブジェド2世
前990 - 969年頃 パネジェム2世
前969 - 945年頃 プスセンネス3世/パセブカエムニウト3世

出典:ファラオの一覧 - Wikipedia (一部改変)

第20王朝の末期にテーベのアメン神官団が事実上 独立した。これをアメン大司祭国家という。ただし他の王朝とは違い、ナンバリングされていない。

少し遡る。

ラメセス11世(前1098-1070年頃)の治世10を過ぎた頃、クシュ(ヌビア)の総督パネヘシが北上してテーベの街を包囲した。当時の王はペル・ラメセスの王宮(ナイルデルタの東)に居たので、ここから国王軍をテーベに派遣した。

国王軍とパネヘシの戦いは国王軍が勝ったのだが、パネヘシはヌビアに戻って追撃の軍を追い払った。その後の話として大司祭国家の2代目ピアンキと交渉(または戦争)をしたという記録がある *1

国王軍の将軍はパイアンクという人物だが、パイアンクはテーベからパネヘシを追い払った後、「宰相」と「大司祭」を自称してテーベに居座り、上エジプトを支配した。そしてこの地位を継承したのがヘリホルという男で、彼がアメン大司祭国家の初代とされる。

ヘリホルの素性の詳細は分からないが、彼は子供の何人かにリビアの人名を就けたことからリビア系だったかもしれない。第20王朝の末期には軍隊にはリビア人が多く採用されていたので、その中から成り上がった可能性はある。

ヘリホルは独自の元号「ウヘム・メスウト(再生の意)」を採用し、独自に王号と即位名を用いて王として振る舞った。

しかし、第20王朝の王権は認めていた。ヘリホルは財力はあったが(ヌビアの金や神殿の財力)、下エジプトを征服する力はなく、さらに言えば下エジプトと敵対するとシリア・パレスチナとの交易ができなくなる(木材がどうしても必要)。

ヘリホルの次代、二代目ピアンキの治世は4年と短かった。ピアンキとパネヘシの件については上述。ピアンキはラメセス11世と同年に亡くなったとされる。

ピアンキの次代、三代目はパネジェム1世はラメセス11世の娘ヘヌトタウイと結婚し、正当な王であると称したが、下エジプトに新しくできた第21王朝とは友好的な関係を保った。

六代目メンケペルラーは父パネジェム1世よりも"控えめ"だった。

父パネジェム1世がカーケペルラー・セテプエンラー(『ラーの魂の出現、アメンに選ばれし者』の意味)という明確な現人神としての称号を用いたのに対し、メンケペルラーは曾祖父ヘリホルと同じヘムネチェルテピアメン(『アメンの第一の預言者』の意味)の称号を用いた[3]。これはメンケペルラーが自らファラオのような神性を帯びることはなく、あくまでも神の意志の代行者としての立場に留まっていた事を示す。

出典:メンケペルラー - Wikipedia

そして次代のスメンデス2世以降は、王号やカルトゥーシュを使用せず、アメン大司祭として形式的に第21王朝に臣従した(事実上は独立国家のまま)。

下エジプトで第22王朝が成立すると、この王朝はアメン大司祭国家を統合して上下エジプトを統一する。アメン神官団の最高位アメン大司祭の職は王族が占めるが、その他の組織は従来と変わらなかった。つまり新王国時代のアメン神官団に戻った、ということができる。



*1:正確に言えば、ビアンキがパネヘシに会いに行くという記録がある。交渉の内容の記録はない