歴史の世界

古アッシリア時代① アッシリア(地域)/アッシリア(王国)の興亡

メソポタミアの北部(アッシリア)の時代区分で、前二千年紀前半を古アッシリア時代と呼ぶ。この時代は古バビロニア時代と同時代で対となる。

アッシリアは西方のシリア北部やアナトリア半島に交易ネットワークを持ち関係が深い。さらにはエジプトの交易も益々頻繁になってくるようになる。

今回はアッシリアの政治の話をして、次回はシリア・アナトリアの話をしよう。

アッシリアと都市アッシュル

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出典:アッシリア - Wikipedia

まずは都市アッシュル(アッシュール)から話を始める。

アッシュールには前2600年頃から人が住み始め、後14世紀半ばに放棄されるまで、およそ4000年続いた。

出典:アッシュール - Wikipedia

アッシュルを首都とする領域国家の国名がアッシリアで、この国名を使った国家が数度に亘り、歴史から消えては復活した(歴史から消えても都市アッシュルやアッシリア人は存続していた)。アッシリアはおおよそメソポタミア北部を支配していたのでこの地をアッシリアと呼ぶ。

アッシリア人とは?

都市アッシュルは前2600年頃から存在が確認できるのだが、この当時の住人がどのような人なのかは分かっていない。古アッシリア時代の初期にメソポタミア都市国家で、アムル人が支配者つまり王となったのだが、アッシュルもそのうちの一つと考えられている(支配層はアムル人で、被支配層はおそらくアッカド人だとは思うが、そのように書かれている文献を見たことはない)。

バビロニアアナトリアの中継交易で盛える

アナトリア半島中部にキュルテペ遺跡があるが、ここは古アッシリア時代のアッシリア人によりカニシュあるいはカネシュと呼ばれていた。この地の支配者はハッティ人(系統不明)だったが、アッシリア人はここにアナトリア半島の拠点を置いた。

アッシリア人はロバのキャラ版を組んで、アナトリアバビロニア産の上等な毛織物とアフガニスタン産の錫 *1 を運んで金や銀を得た。

カニシュには商人の居住区があるのだが、これをカールムと呼ぶ。カールムはカニシュだけではなく、アナトリアとシリア北部で発見されているので、交易ネットワークができていたようだ。そのような状況の中でカニシュのカールムはその中心的役割を持っていた。ちなみにカールムは裁判権も有ったとのことなので *2治外法権をもつ租界のようなものだったと想像できる。

アッシリアとアッシュル神

アッシリアが数度に亘り、歴史から消えては復活したことは既に書いたが、これを支えたのはアッシュル神とその信仰の民アッシリア人だった。

「アッシュル」は神、都市、土地の名前であったが、限定詞を変えることで意味を区別された。アッシリア人はアッシュル神の神像を作らなかった(像を作らないところは一神教などにつながるかもしれないが参考文献にはそのようなことは言及されていない)。

アッシリアの王の伝統的な称号は「アッシュル神の副王」で、真の王はアッシュル神ということになっていた。

シャムシ・アダド1世

さて、ようやく政治の話になる。シャムシ・アダド1世は都市国家アッシュルを領域国家アッシリアに変えた王。彼の事績は『アッシリア王名表』による。

シャムシ・アダド1世はもともとは、アッシュル市の王ではなかった。彼のアッシュル市の近くの小国エカラトゥムの王であったらしい。王の若い頃に南の勢力エシュヌンナが侵攻してきて、戦いに敗北した王はバビロニアに亡命した。

前1811年、エカラトゥムを奪還すると、その3年後にアッシュル市を征服、王位を簒奪する。この時、シャムシ・アダドはアッシュルを宗教ごと継承し、『アッシリア王名表』に改ざんを加えて自らを組み込んだ。

その後、アッシュルの北の肥沃な平原を征服する *3

そしてクライマックスは交易の要衝の都市国家マリとの戦いだ。マリは現代のシリア国内のユーフラテス川沿岸の都市でイラクとの国境付近に在る(上の地図参照)。メソポタミアと地中海を繋ぐ交易の要衝地だった。

当時のマリ王ヤハドゥン・リムとシャムシ・アダドとの数度の戦いは、エカラトゥムを奪うなど前者のほうが優勢だったようだ。しかしヤハドゥン・リムは内部の人間によって暗殺されてしまい、シャムシ・アダドはこの機会に一気にマリを併合した。

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出典:シャムシ・アダド1世 - Wikipedia

その後、シャムシ・アダドはヤムハドとカトナと同盟を組んだ。バビロンの当時の王ハンムラビがシャムシ・アダドに臣属していたことは前回書いた。アッシリアのこの支配体制はシャムシ・アダドが死ぬまでは安定していた。

シャムシ・アダド1世の死後の激動

シャムシ・アダド1世は長期にわたって王位にあったが、前1781年に死去した。これは当時のオリエント世界における大事件であり、バビロンをはじめ多くの国でこの年に「シャムシ・アダド1世が死んだ年」またはそれに類する意味を持った年号がつけられている。

出典:シャムシ・アダド1世 - Wikipedia

細かいところだが、「年号」ではなく、「年名」。

シャムシ・アダドには二人の息子がいることが知られているが、有能ではなかったようだ。彼ら以上に有能な王たちの群雄割拠の中で、2人の息子たちは領地を一貫して削られていった。最終的にはハンムラビに滅ぼされてしまった(前1761年)。



*1:これもバビロニア経由。錫は青銅器を作る材料の他にハンダとしても使用されていた

*2:小林登志子/古代メソポタミア全史/中公新書/2020/p94-95

*3:北限はシンジャル山地。上の地図のシュバト・エンリルより少し上に東西に広がる