今回はバビロン第一王朝の話。バビロン第一王朝は「ハンムラビ法典」で有名なハンムラビ王が属する王朝だ。
これと合わせて、古バビロニア全体を通しての法典と経済の話も書こう。
バビロン第一王朝
バビロニアの時代区分としては「バビロン第一王朝時代」は前1784年頃-前1595年となるが、王朝はその前からあったので、少しさかのぼって話す。
バビロン第一王朝はスム・アブム(アムル人)(前1894年-前1881年) *1 が初代王とされる。バビロン市の都市国家の王として。バビロンの遺跡はバビロン第一王朝時代まで発掘できていないので、詳しいことは分からない。周辺地域が書き遺した記録からこの王朝の歴史を再現している。それによれば、バビロンはイシン・ラルス時代は有力国家ではないがある程度は支配領域を持っていたというのが通説だ。有名なハンムラビ王によって一気にバビロニアを制圧した。
ハンムラビ
ハンムラビ(在位:前1792年頃-前1750年頃)は若くして6代目バビロン王になった。そして、(イシンやラルサではなく)アッシリア王シャムシ・アダド1世に臣属していた。
シャムシ・アダド1世はこの時代でメソポタミア随一で圧倒的な強さを誇る王だった。
またバビロニアの強国ラルサの王リム・シンは前1794年にイシンを滅ぼした。バビロンはラルサと敵対しなければならなかったはずで、だからアッシリアに臣属したと推測できる(前1794年よりも以前にイシンは既に弱くなっていたが)。
だが、シャムシ・アダド1世の死(前1781年)とともに、メソポタミアは群雄割拠群雄割拠の地へと戻った。
シャムシ・アダド1世没後の様相を表す文書が遺っている。
……一人で十分強力な王はいない。10人または15人の王がバビロンのハンムラビに従っているし、同じくらいの数の王がラルサのリム・シン1世、エシュヌンナのイバル・ピ・エル2世、カトナのアムト・ピ・エルに従っている。そしてヤムハドのヤリム・リムには20人の王が従っている……
この文書は、当時の強国の一つマリの文書(マリ文書)の中から発見されたもので、マリ王ジムリ・リムの臣下が王宛てに出した手紙の一節。時期は前1769~前1766年の間。ハンムラビは有力な王の一人として名を挙げられている。言い換えると、ハンムラビ以外の王たちも当時のメソポタミア(とシリアの一部)の有力者たちだ。
メソポタミア統一
その後のハンムラビによる領土拡大は「年名」により分かる。「年名」とは前年に行なわれた業績を誇って短い文句にして記録したものだと思えばいい。
これによると、ハンムラビの 治世29年(前1764年)に、エラム、スバルトゥ、グティ、エシュヌンナなどを撃破したことが分かる。エラムとグティは東方(現在のイラン)の勢力、スバルトゥはアッシリアのことを指す。エシュヌンナはバビロニア北東部の有力国家。
治世30年(前1763年)に、ラルサ王リム・シンに勝利し、ラルサを併合する。
治世32年(前1761年)、アッシリア地方とマルギウム(バビロニア東部の都市国家)を併合する。つまりこれにより、メソポタミア全土を征服したことになる。
治世34年(前1759年)、さらにシリア東部にある強国マリをも倒して征服した。
(以上は、小林登志子『古代メソポタミア全史』(中公新書/2020/p122-123, 128)による)
ハンムラビがどのように戦ったのかは分かっていない。
衰退から滅亡
ハンムラビが前1750年に死んで、次代7代目サムス・イルナになると、早くも衰退し始めた。各地で反乱が起き、イシンやラルサで反乱が起こったほか、後にバビロン第3王朝を建てるカッシート人がアッシリア地方に侵入者として登場する。
そして、チグリス川とユーフラテス川の河口には「海の国(第一王朝)」が建てられる(前1732年頃-前1460年頃)。この王朝は「バビロン第二王朝」とも呼ばれる。資料が少なく、実体は明らかになっていないが、アッカドを話していたという。
バビロン第一王朝は、サムス・イルナ以降も存続するが、一貫して衰退していった。それでもメソポタミアはハンムラビ以降 傑物が久しく出なかったため存続できた。
最後はアナトリアのヒッタイト王ムルシリ1世( ?-前1530年頃)に滅ぼされる(前1595年)。
古バビロニアの社会
法典
この時代は人類最古級の法律文書が次々と現れる時代でもある。既にシュメール時代にもウル・ナンム法典などが存在したが、イシン・ラルサ時代の法典はシュメールの伝統を継承しつつ作成されたものと考えられ、この時代が単に戦乱と無秩序のみの時代であったわけではないことがわかる。
イシンのリピト・イシュタル法典、エシュヌンナのエシュヌンナ法典、そして何よりもバビロンのハンムラビ法典などが次々と編纂された。ただし、これらが実際に運用された法律であると考えるには体系性がないことが知られており、法律というよりは「判例集」「法規集」のような性質を持っていたともいわれる。実際にこれらの法典を用いて行われた裁判の記録などは発見されていない。
ハンムラビ法典は高校でも習うほど有名なものであるが、基本的には過去の法典とそれ程変わらないようだ。ウル第三王朝の伝統が継承されている。
経済
バビロニアは低地の平原で貴石や鉱物は採れず、木材も乏しかった。海外との取引は農作物と手工業製品との物々交換をしていた。硬貨はまだ存在しておらず、銀が秤量貨幣として存在し、その他 錫や銅、金など鉱物が交換媒体として使われていた。ただし、国内も物々交換が主流だった。 *3
経済は(ウル第三王朝と同様)王室が管理する経済だったが、古バビロニア時代になると、商人の活躍や私有地が目立つようになってきた。一方で、借金に苦しむ農民や債務奴隷も記録されるようになり、王たちは「徳政令」を出して彼らの債務を帳消しにした。