歴史の世界

中国文明:二里頭文化④ 二里頭遺跡と新石器時代末期の違い/「夏王朝」の関係

二里頭文化は文字資料が無いため、よく分かっていない部分が多い。

二里頭文化が中国文明の黎明期と考えられているが、新石器時代と二里頭文化は何が違うのだろうか?

また、二里頭文化を夏王朝とする研究者がいるが、その真偽はどうなのか?

二里頭文化期と新石器時代末期の違い

現代中国のここ数十年の急激な発掘・研究により、後期新石器時代末期において中国各地で文化が発達し、その中の幾つかの大集落は都市文明の段階にまで到達していた。

特に新石器時代で最大の集落と言われる陶寺遺跡は中国では「最古の帝都」「堯の都」と言われている。

日本の学会で新石器時代末期を初期国家段階とするか首長制社会段階とするかというような議論がどのように為されているのか分からないが、たとえば吉本道雅氏は以下のように書いている。

国家とそれ以前の社会を分かつ指標としては、階級分化のほかに、都市・冶金術・文字の出現などを挙げうるが、龍山期[新石器時代末期―引用者]にはこれらの要素はほぼ出揃っている。

出典:概説 中国史 上(古代ー中世)/昭和堂/2016/p24(吉本道雅氏の筆)

これに対して、宮本一夫氏はまだ首長制社会段階であったとする。

その理由としては要するに首長権の系統を維持することができなかったとする(宮本一夫/中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)/講談社/2005年/p356)。おそらく世襲できなかった、王朝を建てることができなかった、だから国家段階ではない、と言いたいのだと思う。

そして宮本氏は、二里頭文化期から初期国家の段階に入ったとする。その理由は各地の「社会組織維持のための精神基盤」すなわち際し儀礼を取り入れた、新しい祭祀儀礼として「宮廷儀礼」というものを確立したことを挙げている。(p356-357)

宮廷儀礼は自然信仰(五穀豊穣など?)と祖先信仰を合体させた祭祀になってるという(p316)。

精神面(宗教・思想)は上の説明で良いとして、具体的な面、つまり軍事や経済の面ではどうだろう?

これらのことに関する情報を見つけられなかったので私が勝手に考えると、青銅器がキーワードになると考えられる。

銅鉱山・製造技術を独占すれば、持てる者と持たざる者の格差は圧倒的なものになる。ステータスシンボル(威信財)としての青銅器だけではなく、武器としても他を圧倒する力となっただろう。

これが初期国家段階への進化を可能にしたのではないだろうか。

いずれにしろ、二里頭文化は先史時代から歴史時代*1への過渡期であり、宮本氏によれば「本格的な初期国家の段階は殷王朝の統治から」(p358)ということだ。

二里頭文化と「夏王朝」の関係

現代中国では、二里頭文化の王朝を『史記』などの古い文献に出てくる夏王朝だと断定している。日本の研究者は賛否が分かれる。

そもそも二里頭文化の発見者である徐旭生は夏王朝の王都(夏墟)を、文献上の夏王朝に関する伝承を元にして探し当てたのだ*2佐藤信弥/中国古代史研究の最前線/星海社/2018/p65-68 参照)。

「二里頭文化=夏王朝」説を否定する落合淳思氏は以下のように書いている。

なお二里頭文化の王朝は、文献資料に記された「夏王朝」と同一視されることもあるが、両者は想定される時代が近いものの、内容に食い違いが大きい。

例えば、文献資料では夏王朝の支配が「九州」であったとされているが、「九州」には沿海地域の兗州・青洲・徐州、あるいは長江流域の揚州・荊州・梁州などが含まれており、黄河中流域のみを支配した二里頭文化の王朝の実態とは異なっている。また、最後の王である桀が暴君であったとする伝説が知られているが、紂王の「酒池肉林」伝説と酷似しており、それを模倣して作られたものにすぎない。

ようするに、「夏王朝」は後代に作られた神話であり、二里頭文化に実在した王朝とは直接の関係がないのである。日本では、このことがよく理解されており、便宜上「夏王朝」と呼ぶことはあっても、文献資料の記述をそのまま受け入れている研究者はほとんどいない。しかし、中国ではいまだに文献資料の権威が強く、桀王の説話などを信じている研究者も見られるので注意が必要である。

ちなみに、二里頭文化に実在した王朝については、名前が伝わっていない。そもそも、二里頭文化に続く「殷王朝」も自称ではなく殷を滅ぼした周王朝による命名であり、おそらく王朝の名前を付けるということ自体が周代に始まった文化であると考えられる。

出典:落合淳思/殷―中国史最古の王朝/中公新書/2015/p18-19



できれば日本の研究者に後期新石器時代最大の大集落である陶寺遺跡(山西省)と二里頭遺跡の比較をしてもらいたい。

陶寺遺跡は、中国では「最古の帝都」「堯の都」と言われている。遺跡の面積は56万m²(0.56km²)以上。

近年発見された宮城は13万m²だと言う。(山西陶寺遺址 發現陸現存最早宮城 2017/06/09 | 兩岸 | 中央社 CNA )。

*1:文明誕生の前後、文字資料の有無の違い

*2:ただし、当初本人は殷王朝初代湯王が置いた都「西亳(せいはく)」だと主張していた