中国の北方、農耕地域と放牧地域を分けるように万里の長城が築かれている。この東西に伸びる地域を長城地帯と呼ぶ。
この地帯の歴史の移り変わりを書いていく。
この記事では、宮本一夫氏の『中国の歴史01 神話から歴史へ(神話時代・夏王朝)』*1の「第7章 牧畜型農耕社会の出現」にしたがって黄河上流域(甘粛省・青海省東部)と内蒙古地区を中心に書く。
中国における新石器時代の時代区分。
- 早期(前9000-前7000年)
- 前期(前7000-前5000年)
- 中期(前5000-前3000年)
- 後期(前3000-前2000年)
生業の変化
中期は「完新世の気候最温暖期」と呼ばれ、地球規模で温暖化していた。中国も温暖湿潤化して、農耕の北限が畑作(アワ・キビ)と稲作両方とも北上した。この気候変動により長城地帯に「華北型農耕」が拡散された。
しかし後期に入ると気候は温暖湿潤化から冷涼乾燥化へと変わり、長城地帯の人々は生活様式の変更を余儀なくされた。
長城地帯では冷涼乾燥化に伴なって、森林が草原に変わってしまった。食料資源の一部をシカの狩猟に頼っていたこの地域の人々は、代わりにブタ(家畜)と共にウシ・ヒツジ(牧畜動物)の比重を格段に高めた。
これに対して中原(黄河中流域)は牧畜動物への依存は少なく、特にヒツジに関しては存在が認められない。さらにシカの狩猟も激減したとはいえ一定程度は認められる。
このように家畜と牧畜動物への高い依存は長城地帯の生業の特徴と言える。こうした長城地帯の生業を含む社会を宮本氏は「牧畜型農耕社会」と呼んでいる。(以上、宮本氏/p209-219)
緯度による社会の相違の形成
上記の牧畜型農耕社会は黄河上流域(甘粛省・青海省東部)で発生し、遅れて東方の遼河西部へ伸びる。
両地域は中期新石器時代には交流は無かったが、後期に入ると融合とも言われるほどの交流が土器様式や器種構成によって認められる。
こうして以下のような図式が出来上がる。
出典:宮本氏/p220
遊牧社会は西周以降の冷涼乾燥化の中で牧畜型社会から出現する。さらに北方のシベリアから極北は狩猟採集社会。(p221)*2
占卜の起源
卜骨は、……ウシ、ヒツジ、ブタといった家畜動物やシカなどの肩甲骨を焼いた亀裂の形態から吉凶を占うものである。卜骨は未来を占うという高位そのものが祭祀高位であり、先史時代の社会集団にとっては必要なものであった。卜骨の対象となる動物は、ヒツジが最も多く、ついでブタ、その次がウシであり、シカはごく僅かである。[中略] ウシやヒツジのような牧畜動物が主体であるように、卜骨は牧畜活動と密接に関係しているのである。[中略]
卜骨は、最も古いものが馬家窯文化の甘粛省武山県傅家門遺跡に見られ、牧畜型農耕社会である西北地域が起源である可能性が高い。[中略]
殷王朝は、長城地帯やその接触地域に広がった卜骨祭祀を元に、それを王権体制に組み込むようにして卜骨や甲骨文字を発達させていったのである。
出典:宮本氏/285-288
西方からの新要素の導入
ヒツジ
確実なところでは中期新石器時代末に西北(黄河上流域)に導入された。普及するのは後期以降。(p285)
青銅
青銅器は既に中期新石器時代(仰韶期)に出現しているが、後期(龍山期)まではナイフや錐(きり)といった工具や女性の装飾品として見られる程度で、青銅器時代と言われる二里頭文化期以降のような青銅器は出現していない。
99 新石器時代における青銅器の拡散(佐野2004 より) 中国では青銅器は西北地域に始まり、その後、黄河中流域でも認められるが、二里頭文化期には長城地帯と黄河中流域ではその内容を異にしていく出典:宮本氏/p223
興味深いことに、中原では青銅器時代において青銅器は礼器や威信財となるのだが、長城地帯においては短剣や装飾品にはなったが威信財にはならなかった。(p222-227)
コムギ
コムギは後期新石器時代に中国に流入してきたそうだ。宮本氏は「牧畜型農耕社会が長城地帯に成立する段階と時を同じくして、コムギが流入していくとすれば、冷涼乾燥気候に適応した新たな栽培穀物であったということができるのではないだろうか」と書いている。(p231)
ただし、「チャイナネット」の記事によれば、コムギが華北において重要な穀物になるのは殷代の(紀元前16世紀-紀元前1066年)の初期の二里崗期になってからだそうだ(4000年前のコムギの伝来が中国北部の農業革命をもたらす 2006年9月19日/チャイナネット - china.org.cn )。