歴史の世界

楚漢戦争⑤ 項梁の死と楚国再編

今回は、項梁の突然の戦死とその後の楚国の再編について。

項梁の死後、項羽がスムーズに後を継いだわけではなかった。今回は項羽が権力を握る前までの話。

項梁、対秦戦に動く

項梁の動向については、前々回からの続きとなる。

(秦)二世2年(前208年)6月、陳王の死と張楚国滅亡を確認した後、項梁は新しい楚国を建国した。建国に関する諸々の取り決めを終えた後、いよいよ秦への攻撃に乗り出す。

7月、項梁は東阿(斉の西部)に司馬龍且(りょうしょ)を送り、斉の田栄を助ける。田栄については前回書いたが、魏での秦軍との戦いに敗れて東阿まで逃げていた。援軍を受けた田栄は追撃してきた秦軍を大破することができた。その直後に田栄は斉都に向かい、クーデタを起こした田仮たちを追放して実権を奪い返す。

項梁は東阿に到着した後、田栄に共に秦軍を攻めるように要求するが田栄はこれを拒否した(前回の記事参照)。

項梁の死

秦軍側の総大将あるいは総司令官である章邯は、東阿から退却した後、防戦にまわる。おそらく、都に増援を要請して、増援軍が到着したら攻勢に出る方針だった。

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出典:藤田勝久/項羽と劉邦の時代/講談社選書メチエ/2006/p98

一方、項梁は自ら動く前にまず項羽を動かした。項羽城陽を落としたが、濮陽・定陶を落とすことはできなかった。しかし、雍丘で秦軍を破り、三川郡守の李由(秦の丞相李斯の長男)を討ち取った。その後、項羽は外黃は降すことはできないまま陳留で戦った。

項梁は自ら行軍し、定陶を落とせなかった項羽を雍丘へ進ませた後に定陶を攻撃し、これを撃破した。そしてこの後に雍丘の戦勝を聞いて、項梁は慢心したという。

9月、秦中央は章邯に中央から大軍を与えて定陶を攻撃させ、その結果、楚軍は大敗し項梁は戦死した *1

史記項羽本紀では項梁の戦死は自身の慢心・傲慢さの結果だとしているが、兵力の差で圧倒されて大敗したというのが本当のところだろう。

楚国、国の再編を余儀なくされる

項梁の戦死を知った項羽は陳留の攻撃を止め、彭城に撤退した。

項梁の死は楚国にとって大問題だった。1個の軍だった時なら項羽が後を継ぐことでまとまれたが、国家となるとそうはいかない。項羽はまだ24歳か25歳の若年者で武力以外の能力は他人に認められる実績がなかった。

ここで傀儡の王のはずの懐王が権力を握ることとなる。おそらく彼の背後に項梁・項羽とソリの合わない人々が集まって知恵をつけたか操っていたのだろう。

懐王は都を長江下流の盱台(くい)から楚秦戦の最前線に近い彭城に遷し、新しい体制を作った。

まず呂臣を司徒(大臣)に、父の呂青を令尹(宰相)に任命した。呂臣の素性については詳しくは分からないが、元々は張楚国の陳王の配下で、陳王を殺害した御者(車夫)の荘賈を殺した後、自らは私兵を組織して秦軍と戦っていたが、楚軍が西に秦軍してきた際に英布軍に合流した。このような人物がいきなり国家の中枢の責任者になった理由については分からない(素人なりに考えれば、張楚国の残党を吸収するために、呂臣らが必要だったということか?)。

そして内政より大事な軍編成だが、上将軍を宋義、項羽を次将、范増を末将とした。その上で、別将(楚国に合流した小軍団)も上将軍に従属するように命じた。宋義が総大将(総司令官)になったということだ。

宋義は戦国楚で令尹の経験があるという人物だが、項梁の決起から共に行動したメンバーの一人だった。宋義は定陶で勝利して慢心していた項梁を諌めたが聞き入れられず、項梁が敗北することを予期した。これを聞いた懐王は宋義を呼び出してその先見を讃え、そして「面接」をした後、懐王は大いに悦び宋義を上将軍に任命した *2

さて、この軍編成で、次の決戦の場である鉅鹿の戦いに臨むわけわけだが、佐竹靖彦氏によれば、《宋義を総大将としたこの軍を項羽を除いては軍事には素人のものたちばかりが将軍になることになった》と評している *3。 佐竹氏によれば、范増が末将になったのも、懐王を王にしてくれた論功行賞だということだ。

この決定について項羽が抵抗したという記述は無い。ただし、鉅鹿に到着する手前で、宋義にブチ切れることとなる。



*1:項羽本紀《秦果悉起兵益章邯,秦果悉起兵益章邯,擊楚軍,大破之定陶,項梁死。》

*2:項羽本紀《王召宋義與計事而大說之,因置以為上將軍……》

*3:佐竹靖彦/項羽中央公論新社/2010/p150