これから戦国時代における称王/遷都/社会の発達について書く。
諸侯の称王
称王とは王を称すること。これまで中原の諸侯は形式的に周王の臣下だったが、王を称するということはこれを否定することになる。それはすなわち周王朝の否定もしくは無視することを意味する。
ここでは代表例として魏の恵王を取り上げる。
前349年、晋が断絶すると、魏恵王は覇者認証を周王朝に迫ったが、魏の覇権を嫌った韓は、前343年、周と謀って秦孝公を覇者に認証させた。そこで恵王は、中原では周王朝だけが保持していた王号を称し、周王朝覆滅を図ったが、斉威王(前357~前320)に馬陵の戦で大敗した。
魏はそれまでは名目上の晋侯の臣下だったが、恵王は晋に取って代わろうとした。しかし韓はこれを嫌った。魏の権威が増大すれば、韓の権益が魏に削り取られることになる。また魏が覇者となったばあい、韓が魏の命令に従わなければ、攻撃の大義名分が成り立つ。
周のわずかな領土は韓の領土に囲まれていたので、韓が周に圧力をかけて秦を覇者にした。
恵王は、それでは晋に取って代わるのではなく、周に取って代わろう、と思った。
恵王は「夏王」と称した。『戦国策』秦策四の「或為六国説秦王」章に、「魏伐邯鄲、因退為逢沢之遇、乗夏車、称夏王、朝為天子、天下皆従」(魏が邯鄲〔に都を置く趙〕を伐ち、これによって引き揚げて逢沢〔今の河南省開封市の南〕で会を行うと、〔魏王は、夏車に乗り、夏王と称し、〔諸侯と〕朝見して天子となり、天下の者はみな従った)とある。楊寛や吉本道雅は、これが魏の君主が王号を称するようになった始まりであるとする。周や殷以前の王朝とされる夏の王、そして天子と称することで、周王朝に取って代わる意志を示したのである。
出典:佐藤伸弥/周/中公新書/2016/p205-206
吉本氏の説によれば、恵王が王を称するようになったのは、韓が「周と謀って秦孝公を覇者に認証させた」前343年と馬陵の戦いの前342年の間となる。
斉の威王は魏・恵王と王号を相互認証することによって、周王朝と秦の覇者認証を否定した*1。
さて、周王は魏の代わりに秦の孝公を覇者に認証した。しかし秦の君主は春秋時代より天命を受けた天子と自認していた*2。そして孝公の次代の恵文王は前331~328年に大攻勢で魏の黄河以西の全ての領土を攻略すると、前325年に周王推戴を放棄し、王を称した。
その他の諸侯は韓・趙・燕、更には小国の宋や中山国までも王を称した(佐藤氏/p207)。楚・越など南方の国は春秋時代より王を称している。
これですでに周王の利用価値はほとんどゼロになったと思われるが、それからも王室は存続している。
三晋の遷都
趙は前386年に邯鄲(河北省邯鄲市邯鄲趙城)に、韓は前374年に新鄭(河南省新鄭市鄭韓故城)に遷都していたが、魏も前361年に大梁(河南省開封市)に遷都した。これらの都城は洛陽から東方・北方に向かう交通路上にあった。楚の副都というべき陳も新鄭・大梁にほど近く、大梁の東方には、『史記』貨殖列伝に「天下の中、諸侯四通」と謳われた陶があった。
出典:吉本氏/p51
中原の中心は洛陽。洛陽は交通上の要衝であり、商業の中心地だ*3。三晋は洛陽に行くために通らなければならない途上に遷都した。それらの地では洛陽から出入りするための通行税を取ることができる。三都は栄えていたと言うから市場利用税も多額になっただろう。
仮に王都ではなく、臣下にこの年を与えたとしたらどうだろう?その臣下は王よりも富むことになり、最終的には、三晋がやったように、下剋上を起こすかもしれない。遷都は懸命な選択だったようだ。
経済状況と富国強兵策
上で書いた三晋が遷都をした頃の経済状況はどのようだったか。
大梁建設の際、魏は黄河から鴻溝を引き、大梁西方に長城・陽池などの防備施設を構築した。民を組織的に挑発することで大規模土木工事が可能になったのである。山林藪沢の開発によって農地も飛躍的に拡大し、誘致に応えて農民が他国に移住することが日常的に行われた。鉄製農具や牛耕の普及、小農民の析出が本格化するのもこの頃であろう。
農業生産力の上昇にともない、大量の余剰人口を養う事が可能となり、諸侯の都城をはじめとする都市が発達した。都市に設置された「市」では三晋・周の布銭・斉・燕の刀銭、秦の環銭、楚の蟻鼻銭など青銅貨幣が用いられ、高額取引には黄金も用いられた。三晋では都市ごとに貨幣が鋳造され、都市の自立性の高さと評価されている。
出典:吉本氏/p51-52(文字修飾は引用者)
山林藪沢について
山林藪沢
古代史において、金石竹木あるいは皮革や羽毛など軍需物資を豊富に産した為、しばしば国富の基とされる地の総称。代表的なものに宋の孟諸、楚の雲夢、越の具区、趙の鉅鹿などが挙げられ、戦国韓の新鄭遷都や魏の大梁遷都もそれぞれ滎沢・濁沢の直轄化を目的の1つとしていた。 著名な山林藪沢は君主権の伸張や下剋上だけでなく、国力の浮沈をも左右し、戦国宋の滅亡や斉の没落を招いた済西の役も、「これに淮北を加えれば万乗の国に匹敵す」と評された孟諸の帰属争いが原因だった。 又た孟諸の帰属で紛糾する諸国の耳目を盗んで楚の雲夢を奪った秦は、全国制覇に向けて大きく優位に立つようになった。
戦国諸国の富国強兵策を支えた経済政策を、どう捉えるかについては、様々な角度からの研究がある。山林藪沢の経営が、その中枢にあったことは、鱒淵龍夫氏が提唱されて以来、定説になっている。出現し普及した鉄製農具によって、その耕地化が進んだ、という側面が重要なことは確かである。秦の場合、鄭国渠という灌漑用水を建設して穀物生産量を増加させたことが、中国統一の原動力になった、と司馬遷は書いている。
が、それ以前に、鉄器出現は、森林の伐採を容易にした、という側面も大きい。これによって森林草原が喪失し、狩猟や牧畜など定着農耕以外の生業は、困難になっていったのである。「夷狄」蔑視の土壌が発生したことになる。それでも残存した山林藪沢は、各地域毎に特徴のある、特に見事な樹木のある場所や、貴重な鉱山、鳥獣魚類の豊富な場所でもあり、何より「夷狄」の根拠地とさせないために、諸侯が直轄地にした場合が多い。その産物は、諸侯自身の収入を生み(「家産化」という)、貴族層と隔絶して強大な国君という存在を出現させた、と考えられている。山林藪沢の産物が「冨」を生んだのは、どこにでもありそうな森林が耕地化によって消滅し、広域流通によって利益を挙げうる希少性のある物資が発生したからである。
蟻鼻銭・刀銭・布銭など、戦国諸国毎に発行された貨幣は、これらの流通を担っていた。
富の源であっただけではなく、「何より「夷狄」の根拠地とさせないために、諸侯が直轄地にした場合が多い」も注目点。春秋時代までは都市の周りには夷狄がいたが、戦国の君主たちはこれらを追い出した。戦国の諸侯国は領地が「点から面へ」と変わっていく。つまり領域国家になっていく。
「小農民の析出が本格化」
高校の世界史教科書的には、「鉄製農具と牛耕の普及により農業生産力が向上して、家族単位で農業経営できるようになり、農村共同体が解体された」。ということになっている。
一例が以下の図。
上の吉本氏の引用では鉄製農具・牛耕に山林藪沢が加わる。というよりも、「山林藪沢の開発によって農地も飛躍的に拡大し、誘致に応えて農民が他国に移住することが日常的に行われた」ということで、山林藪沢の方がメインのようだ。
「小農民の析出が本格化」について、以上の他にもう一つ説がある。
小農民の経営は不安定であった。血縁に基づく大家族(一家の単位が氏族)で生活することで、食糧費・祭祀費や衣料費などを切り詰めて暮らしていた氏族制社会の解体が難しかった理由である。かれらを単婚家族(小農民、5人家族)として氏族の軛から切り離し、自作農とするためには、国家は豊作・不作に応じて穀価を調節しなければならない。李克は、このように国家が少農民の自営を保護する必要を主張、実践したのである。
出典:渡邉義浩/春秋戦国/洋泉社/2018/p91
李克とは魏の文侯に仕えていたブレーン。彼が「地力を尽くす教え」を記して上のように訴えたという。(同ページ)
さらに、李克に影響を受けたと言われる秦の宰相・商鞅について。
商鞅の第一次変法(孝公3年、前359年)は、氏族制社会の解体を目的とする。
民に対しては、二人以上の男子がいる家を分家させる「分異の令」を発令した。氏族制を分解して単婚家族(5人が標準)を創出するためである。その結果析出された単婚家族を編成するものが、「什伍の制」である。これは、5家(伍)を単位として、連座制をもうけて相互監視させる制度である。伍は徴税の単位となり、徴兵の単位ともなった。これによって、血縁で結びついた氏族ではなく、赤の他人同士が伍により組織されて、官吏の支配を一人ひとりが受ける民となるのである。
渡邉氏/p98
つまり国側は富国強兵の一環として、徴税と徴兵を確実にするために、一人ひとりを支配するために、氏族制社会の解体を推し進めた、というわけだ。
ただし、上述の吉本氏は商鞅の「変法」に関する「『史記』の記述は、戦国後期の法家の創作部分が大きい」として、「分異の令」の確実な証拠がないとして疑義を唱えている。(吉本氏/p52)
ちなみに、李克の「地力を尽くす教え」は『漢書』食貨志に書かれたものらしい。『漢書』は後漢代に書かれた史書だ。
鉄製農具や牛耕の普及
下は落合氏の説。
考古学的な研究が進むと、春秋時代から戦国時代初期までは、鉄製の農具はごくわずかしかつかわれていなかったことが明らかになった。つまり、鉄製農具はあったが「普及」はしていなかったのである。鉄製農具の普及は、今のところ戦国時代中期以降と考えられている。
牛耕も同様であり、牛に牽かせる犂や牛の鼻輪は、戦国時代までの遺跡からはほとんど出土していない。これも、最初にはじめられたのがどの時代かは確定していないが、普及は戦国時代の末期以降ということになる。
出典:落合淳思/古代中国の虚像と実像/講談社現代新書/2009/p86
まとめ
以上をまとめて考えると、「山林藪沢の開発によって農地も飛躍的に拡大し、誘致に応えて農民が他国に移住することが日常的に行われた」をメインにして、富国強兵策として小家族単位の支配(=徴税・徴兵の強化)を推し進めた。と考えるのが妥当かと思う。
これに加えて、国家は商業発達に対して商人から通行税や市場利用税を徴収した。