前回に引き続き、斉・秦の二強時代の時代。今回は秦。
秦という国について
春秋時代の秦については以前すこし書いた(春秋時代⑤ 楚と秦#秦と穆公(繆公) )。
華北平原に位置する中原諸国に対して、秦は山がちな地帯の国だ。と言っても首都がある場所は関中平原(大きなな盆地)。
ちなみに華北平原の大部分は標高50m以下*1、関中平原の標高は平均520m*2。
中原から秦へ入るには黄河の川筋を通らなければならないが、紀元前361年に秦の孝公は東方からの侵入を防ぐためにその川筋に函谷関を築いた。
秦は中原諸国に対して劣勢な時期は函谷関を閉ざしておけば王都を攻められることはなかった。これは他の諸国に比べて軍事面において非常に有利だった。ただし、時代が降るにつれ遊牧民の侵入が活発になり、北方に長城を築くようになる。
「春秋秦」から「戦国秦」への変貌/商鞅の変法
秦では躁公(前442~前429)が卒したのち、公位継承紛争が続発したが、簡公(前415~406年)の頃から国君専権を制度的に強化するようになった。前409年には、「吏」に剣を帯びさせ、支配層としての身分を認めさせた。春秋後期より拡充されつつあった家臣制を統治機構に正式に編入したものである。賽銭された統治機構を維持する財源確保のため、前408年「初めて禾を租す」という祖地がとられた。
「禾を租す」はおそらく穀物に課す税のことだと思うが、それまでどのように徴税していたのかは分からない。後述する宰相・商鞅も農業を奨励しているので、当時の秦には農民が少なかったのかもしれない。
戦国時代になると戦争の体系が戦車(チャリオット)から歩兵中心に変わったため、大量の歩兵を確保するためにも農民の増加に力を入れなければならなかったようだ(p51)。
戦国秦の体制の改革と言えば真っ先に商鞅の変法の話が出てくる。
渡邉義浩『戦国春秋』*3を元に変法を書く。
第一次変法 ― 氏族制の解体
- 分異の令:2人以上の男子がいる家は分家させ単婚家族をつくる。
- 什伍の制:5家またはその2倍の10家を単位として相互監視をさせ連帯責任を負わせる。
- 軍功爵:軍功に応じて爵位を付与する。これは公族にまで適応され、地位に応じた功績をあげなければ、公族は戸籍を剥奪される。また、爵位に応じて、対象者は田畑と宅地・隷属民・衣服を受けるようにした。
以上は支配者層・非支配者層の両方の氏族制を解体した。非支配者層においては戸籍をつくり、徴税と徴税の効率を上げることが主眼。支配者層においては恒久的な権力保持を許さず、君主の権力を脅かす存在の出現を抑制することを目的とする。
第二次変法 ― 君主権力の強化
- 郡県制:県を設置し、一代限りの官僚を派遣して統治させる。世襲の土地(公族・家臣の領地)の拡大を抑制する。
- 阡陌制:南北の道を開き、耕作可能な土地を拡大し、賞与のための田畑を確保した。
- 度量衡の統一。
以上は画一したシステムを作って効率を上げることが主眼。そしてそのシステムの頂点に君主がいる。
後進国であるがゆえに、本来的に氏族制の弱体であった秦で、氏族制の解体が進んでいく。そして、解体された一人ひとりを君主が直接把握することにより、国家のなかで君主のみが唯一強力な権力をもつ、始皇帝時の社会体制が、次第に形成されていくのである。
出典:渡邉義浩/春秋戦国/歴史新書/2018/p99
以上に対して、吉本道雅氏は、以下のように書いている。
『史記』には、この時期、秦孝孝に仕えた商鞅(前390?~前338)が二度の「変法」を実施したとある。孝公18年(前344)の紀年をもつ商鞅量に、「大良造鞅」と見え、商鞅が秦の卿の筆頭である大良造に任ぜられたことは事実である。しかし『史記』の記述は、戦国後期の法家の創作部分が大きい。確実な年代記的部分に見えるのは、前350年の咸陽(陝西省咸陽市秦咸陽城)遷都と県制の実施であり、多様な名称をもち、国家との関係も様々であった邑を統合して「県」とし、県令を派遣し、前349年には県に「有秩史」を設置した。[中略] 「郡」「県」は春秋期から散見するが、秦漢的郡県制の形成は戦国後期に降ることになる。
出典:吉本氏/p52
なんでもかんでも商鞅がやったことだというのは無理があるということだろうか。
富国強兵のために戸籍を作成したり、君主の権力を強化することは当時のどこの大国も行なっている。商鞅の変法は、後進国であった秦が先進諸国に追いつくために先進諸国のシステムを導入したのであって、商鞅のアイデアはそれを導入するにあたってのカスタマイズだったとかんがえればいいのかもしれない。
孝公が亡くなると恵文王が継いだが、恵文王は商鞅を殺した。しかし商鞅が築き上げたと言われる政治システムはそのまま継続した。これは呉起(前440-381年)が楚で政治改革を行なって死後に改革を破棄されたのと対象的である。
巴蜀合併と対楚戦勝利
巴蜀を併合
また紀元前316年には秦の領域である関中の後ろに大きく広がる巴蜀(中国語版)を併合する(秦滅巴蜀の戦い(中国語版))。この地域には三星堆文化を元とした独自の文化を持った国が栄えており、周に対して服属していた。征蜀の前に張儀と司馬錯に対して蜀を取るべきかどうかを諮問したところ、張儀はこれに反対して国の中央である周を取るべきと主張し、司馬錯は蜀を取って後背地を得るべきだと主張した。恵文王は司馬錯の意見を採用して蜀を取り、この事で、秦は大きな穀倉地帯を得、更に長江下流にある楚に対して河を使った進軍・輸送が可能になり、圧倒的に有利な立場に立った。楚討伐と漢中郡設置
そして紀元前312年、楚が張儀の策謀に嵌って秦に攻め込んで来た時には丹陽(現在の河南省南陽市淅川県)で返り討ちにし、逆に楚の漢中地方に攻め入り、その地に漢中郡を設置する。その後、楚が再び侵攻して来た際には、咸陽に近い藍田(現在の陝西省西安市藍田県)の地で撃破して、楚衰亡の端緒を作り出す(藍田の戦い)。
白起の登場/昭襄王、西帝を自称する
昭襄王(前306-251年)の治世、いよいよ白起(? - 前257年)が登場する。24万を斬首したとされる伊闕の戦いは、後世から見ると秦の統一事業の始まりのようなものだ。その後、白起によって函谷関から東は順々と秦の領地になっていく。
前292年に昭襄王が西帝を自称し斉の湣王に東帝の称号を贈ったのは、白起の存在があったからだろう(昭襄王、湣王ともにすぐに帝の称号から王号に戻した)。
前284年、斉が五カ国の連合軍に大敗し湣王が亡くなると斉の勢力は衰退し、いよいよ秦の一強の時代が始まる。
*1:華北平原(かほくへいげん)<平凡社世界大百科事典 第2版<コトバンク
*3:歴史新書/2018/p98-100