歴史の世界

儒家(7)孟子(仁義について)

今回は儒家の話をしようと思ったが、孟子について書くことが多くなってしまったので記事を数回に分けて書くことにする。

孟子その人について

孟子(前372?-289年)は戦国前期、小国の鄒(すう、魯の隣国)で生まれた。鄒で学団を形成して名声は鄒の外へ及び、魏恵王(在位:前370‐318)に招聘された後、何人かの王に招かれている。当時それほどの有名人だった。

ちなみに、孟母三遷や孟母断機という有名な母の話があるが作り話のようだ。孟子が子思に直接学んだと『史記孟子荀卿列伝にあるそうだが、これも年代に整合性が合っていないということだ *1。 ただし、1990年代に発見された出土文献*2より、孟子は子思の思想に影響されているとされている。

仁義について

鄒にいた孟子の名声を聞いた魏の恵王は孟子を招聘して問うた。「先生は千里の道を遠きとせずにお越しくださった。それでは我が国にどのような有益な話をしてくださるのでしょうか?」

これに孟子が返した。「王さま、どうして利益の話をする必要がありましょうか?大事なのは仁義です。」

孟子』梁恵王・上篇では、最初のジャブにいきなりカウンターをあびせて立て続けに攻撃を続けている。上の語の後には「王さまや以下の者が私利のことしか考えなかったら必ず国が滅んでしまいます。だから王さまは仁義だけのことを考えてください。」

以上は王道政治に関わる話だが、王道政治については後で書くとしてここでは仁義を先に書いておく。

仁、義の概念は日本の思想にも重要なものだと思うので。

仁について

仁は孔子が大切にしていた要素だが、『論語』を読んでもよく意味が分からない。

孟子は当時のライバル(?)だった楊朱や墨家の論と比較して仁とは何かを語っているので孔子よりは理解しやすい。

孔子は「仁」を主唱した。これは仁による仁愛のことである。そこから墨子派は「兼愛」を、楊朱派は「自愛」を強調していた。東洋における「愛」の思想の深まりだ。こういう自他の愛が相い並ぶという考え方はヨーロッパには薄い。しかし、この思想はしだいに孔子学苑の軸から離れようとしていた。

この動向を見た孟子は「楊朱・墨擢の言、天下に盈(み)つ」と嘆き、各地の王との問答を通しつつ、かれらに代わる思想の表明にとりくんだ。ここに登場してきたのが新たな「仁義」の提唱だった。

楊朱の愛は我が為にする「為我」(いが)に片寄っている。利己的な自己愛である。また墨擢(墨子)の説く「兼愛」は他者に向かってはいるが、愛する者としての「分」が曖昧になっている。これらの自愛と他愛だけでは国や人にあまねく愛は進むまい。そこには「仁」と「義」をあわせもつ仁義が必要である。そう、孟子は説いて、仁義をもって孔子の道の復活を語り抜いた。

出典:1567夜『孟子』孟子|松岡正剛の千夜千冊

墨家の語る兼愛は博愛主義つまり万人を平等に愛そうという主義。それに対して孟子は〈父を無みし君を無みする禽獣の愛なり〉(親・君主と他人の区別をつけない愛など禽獣の愛と変わらない)と厳しく批判している。他方、楊朱の愛については自己中だと。

上の引用では、仁とは「分」が曖昧になっていない愛のことだということになる。これはどういうことかと言うと、「両親に最上の愛情を注ぎ、その次に兄弟などの近親に相応の愛情をかける。知人・同僚や縁遠い人にはそれなりの愛情で応対する」というのが孟子のいうところの仁となる。分をわきまえた愛情を仁という。これは一般人の普通の感情の動きの肯定だろう。無理をして万人を愛する必要はなく、かと言って自己中な人は総スカンを食う。

このような考えは儒教の中心概念である中庸(「過不足なく偏りのない」徳 *3) と適合している。

義について

中国思想の概念。〈義は宜(ぎ)(よろし)なり〉(《中庸》など)というのが伝統的な定義。ことがらの妥当性をいう。儒教では五常(仁義礼智信)のひとつとして重視され,しばしば〈仁義〉〈礼義〉と熟して使われるが,対他的,社会的行為がある一定の準則にかなっていることをいう。

出典:義(ぎ)とは -平凡社 世界大百科事典 第2版<コトバンク

分かりにくいので「宣」を調べる。

ぎ【宜】
〘名〙 その場にあてはまって都合がよいこと。

出典:宜/諾(ウベ)とは - 精選版 日本国語大辞典<コトバンク

義が「妥当性」とか「その場にあてはまって都合がよいこと」とすると「TPOに応じて卒なく応対できるさま」のことのように思えるが、どうもそうではないらしい。孟子はもっと義に高邁な意味を込めているようだ。

例えば、人助けをして表彰された場合の常套句に「人として当然のことをしたまでです」というものがあるが、おそらくこれが義だ(と個人的に思っている)。

ネットで検索をしていた中で、義についてネガティブな解釈があったので引用しておく。

四書の一つ『中庸』にも「義は宜(よろ)しきなり」と語られています。義をただ宜しいと、非常に漠然と表現しているのです。では、いったい何を以て「宜しい」というのか、その意味を考えてみると、どうしても主観的な価値観によってしまいます。自分が「宜しい」と思うことと、人が「宜しい」と思うことは、違っていることもあります。……人によっても、時によってもその定義は違います。……こうした理由から、義の行為についての基準を設定することは絶望的です。そのことからも分かるように、義という倫理的規範は決して超歴史的で絶対的なものではなく、それはあくまでも時代という制約を受けるもので、主観的、民族的、階級的なものとしてあるのです。[中略]

義は主観主義的性格をもつ上下支配の原理であるとともに、差別を肯定する道理でもあります。[中略]

「貴々、尊々、老々、長々、義之倫成」(貴人を貴し、尊者を尊い、賢人の賢才を評し、老人を敬い、長輩にしたがうのが義の規範であります)〔『荀子』大略篇〕という定義からも分かるように、人と人との間の差別の道が義になるということを表しています。君臣、父子、夫婦、長幼、自他それぞれの道があって、その差別を肯定する道が即ち義です。[中略]

孟子は義を説いたとき、兄に従う、目上を敬うと同時に、「父子の間に仁、君臣の間に義」(尽心下)と規定しながら、これこそ「人間としての道である」と言っています。つまり義は君臣(主従)を結びつける原則であって、また君臣を離すところの原則にもなります。所詮、君臣の義を具体化するのは君臣の礼しかありえないので、そのような「貴々、尊々、……」の倫理的規範を生み出したものは、差別主義と権威主義です。

もちろん、それも階級社会の反映の一つにすぎません。義を求めることは、臣が君に忠義を尽くすのと同じように、実質的には権威に従い、伝統にも従うということにもなるのです。

出典:日本人の道徳力 - 黄文雄 - Google ブックス

  • 黄文雄氏は中国に批判的であることを留意して読む必要がある。

前近代は階級社会で差別があることが当然で各々が身分の分をわきまえることが社会秩序の基礎だった。義は「TPOに応じた振る舞いができるさま」というニュートラルな意味から黄文雄氏のような解釈もできるし、引用にあるように孟子もその方向にも解釈している。

日本人の道徳力

日本人の道徳力

  • 作者:黄 文雄
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2013/12/21
  • メディア: 単行本

仁義について

仁義については2つの意味が有るように思う。

まずは、「仁は人の心なり 義は人の路なり」(『孟子』告子章句上)という言葉。義は状況に適した振る舞いで、すでに決まっていることだが、仁は他人への思いやりで、感情なので決まりごとではない。

仁と義がセットになると一個の人間が「他人への思いやり(感情)を行為によって他人に示すこと」ということになる。行為というのはもちろん相手に「それが仁から発せられたもの」と分かるような行為だ(これが義)。

以上は孟子君侯に求めた仁義

もう一つは君侯と臣下の関係における仁義

論語』は「仁」を説き、それを徳目として中庸を生きることを奨める。右に走らず左に寄らず、上に阿(おもね)ず下を蔑まないようにする。

これを補うのが『孟子』である。上の者(君)が「仁」をもつなら、下の者(臣)は「義」で報いるべきだとした。孟子はこれを「仁義」というふうに重合した。この孔孟(こうもう)の両方で民が治まり、君が仁政を実施できる。古代儒学はこういうふうになっている。それが君主のとるべき王道なのである。

出典:1567夜『孟子』孟子|松岡正剛の千夜千冊

上の解釈はおそらく「仁をもって義をなす、義によって人に尽くす」(出典がわからない)がソースだと思われる。中世日本の御恩と奉公に似た関係だ。ここでは、君侯の仁に対して、臣下が道理にかなった行為をおこなうことだ。

ただし、孟子のいう「義」とは、やむをえずに従わされる外的なものではなく、あくまでも仁に対して積極的に義を行おうとするものだ。実際には「状況に対応」して義と称される行為をするのだが、孟子は理想主義なので精神論的な考え方になる。



次回も孟子が続く。
儒教は日本への影響が強いので他の思想・哲学より一段深く知っておくべきだと思う。