「会同型儀礼」
西周前半期の王が諸侯たちの上に支配/君臨するために、王はどのようなことを行ったのか。
ひとつは「朝見」だ。朝見とは、「臣下が朝廷に参内(さんだい)して天子に拝謁すること*1」。
西周代の詳しい朝見の仕方は分からないが、基本的には、諸侯が何がしかの報告と朝貢をして、王が何がしかの品を下賜することで、諸侯たちに あらためて主従の関係を確認させた。
王の主催と多種多様な人々の参加によって、成り立つ儀礼を、筆者は人々が王のもとに一堂に介して行う儀礼という意味合いをこめて、「会同型儀礼」と呼んでいる。
内服(王畿内)・外服の諸侯から一官吏に至る様々な人々の前で祭祀・儀礼を行い、その後に おそらく祭祀で使用した犠牲(牛など)や狩猟の儀礼や漁撈の儀礼で得たものを一同に振る舞ったのだろう。また引き出物も出された。さらに、王は様々な人々と接し、功を立てた人物には宝貝などの物品を賞与して関係を深めた。このような催しを佐藤氏は現代の「お祭り」と表現して盛大に行われたとしている。
こうして王は支配者としての王の姿を一同に印象づけた。
「戦闘は続いていた」
[『史記』周本紀によると、]成王と康王の時代には、天下はおさまって安らぎ、罪を犯す者とてなく、刑罰は四十余年間も用いられなかったほどであったという。[中略] この「成康の治」と称すべき期間、『史記』の言うような平和が実際のことであったのであろうか。
金文によるならば、成王から康王にかけてのこの時期が平和な時期であったなどとは言いがたく、むしろとくに康王期には戦闘が多いとみる方があたっていよう。
竹内氏は大規模な戦争と東夷の反乱の金文を紹介した後で次のように続ける。
これは先にも述べたように、周が殷を倒した戦いが、決して殷に服していた勢力全般に対する勝利ではなかったことに由来するものである。各地に分散して存在していた諸勢力は、克殷[周が殷を倒した戦いのこと]後も必ずしも周に起伏することに肯(がえ)んぜず、戦いをいどんで破れてはダメージを受けながらも、周に対して根強い抵抗を続けたのであった。成王・康王の時代は、対外的にはこのようにまことに厳しい状況におかれていたのであった。
出典:竹内氏/p182
竹内氏はこのような根強い反体制勢力との戦いと「封建」が「表裏の関係」にあると思われる、と書いている。封建された諸侯たちは、周王朝に復することを良しとしない勢力の監視と鎮圧を期待されていたということだ。
昭王の南征
『史記』周本紀には、第四代の昭王は南征をしてそのまま戻らず長江の上で亡くなった、としている*2。
金文の研究によれば、昭王が遠征先で客死した証拠はないが、複数回の遠征をしたと考えられている。遠征の目的は長江中流域にある銅鉱山の獲得または交通路の確保*3。
この遠征によって一時期は支配できたようだ。西周代の青銅器がこの地域の幾つかの場所で出土している*4。しかし、第五代穆王の代に早くも、南の勢力(南夷や淮夷)が王畿内に侵入してくる事態になっている。
結局のところ昭王の南征は失敗に終わり、穆王の代からは領土拡大政策を放棄した*5。
「会同型儀礼」の件でひとこと。
大勢の前で大盤振る舞いして、自分を大物に見せる仕方は現代中国の一般庶民でも行っていることだ。このことは「中国人について⑥ 人間関係 その5 面子について#「面子」に関する2つの場面#食事会の企画者が全額払うのが基本。割り勘は論外」で書いた。
この「面子」は現代中国の政治や中国人との付き合い、そして中国史を理解するために有用な知識だ。
*1:朝見(チョウケン)とは - コトバンク(小学館デジタル大辞泉)
*2:「昭王 (周) - Wikipedia」では「南方を巡狩(視察)して戻ってくることなく死に」と書いてあるが、佐藤信弥氏によれば、この場合「巡狩」は視察ではなく遠征を意味するとのこと(佐藤氏/p73)
*3:佐藤氏/p75
*5:佐藤氏は南征は昭王までとするが、竹内氏は穆王も南征を行ったとしている。ただし、その後に南の勢力に攻め込まれたことは変わらない