記事タイトルの通り、邑制国家から領域国家へという話と遊牧民の登場について書く。
前4世紀末の状況
前4世紀末になると、秦が巴蜀(現在の四川省あたり)を統治下に置くなど、辺境に領土を拡張して今日の中国本土(「中国本土 - Wikipedia」参照)までの広がりを見せた。
北方辺境には戎・狄さらに貉と称される人々があった。形質人類学的にかれらは中国本土の住民と同じ東アジア=モンゴロイドに属したが、前5~4世紀から、北アジア=モンゴロイドに属し、のちの匈奴・東胡の祖先にあたる遊牧民が南下した。前4世紀末より、秦・趙・燕は北方に進出して長城を構築し、遊牧民と対峙した。趙武霊王はこの時、遊牧民の軍装である「胡服騎射」を採用している。中華と遊牧民に南北より圧迫された結果、戎・狄は最終的に消滅した。
邑制国家から領域国家へ
春秋戦国時代は邑制国家から領域国家へ変わる過渡期と言われることがあるが、これについて以下に書く。
邑制国家のおさらいと殷周の邑制国家
まず、邑制国家についておさらいする。
「邑」というのは小さな邑から大都市までを表わす語。
一定の広大な領域を支配する氏族が住む大きな邑は都邑とされ(つまり都市)それに属する村・集落は属邑と呼ばれる。
そしてこの領域(都邑と属邑)の氏族共同体を邑制国家という。
中国史における「邑制国家」は世界史の「都市国家」と同じだ。
殷周は邑制国家だと言われるが、正確に言えば都市連合国家だ。
殷は殷王室とそれに服属した邑制国家(つまり都市国家)の連合体。
周は周王室と王室の子孫と王室に極めて近い集団(姜族)の国家の連合体だ。周王朝は春秋時代に分裂したことを考えれば分かるように、各地の諸侯は独立性が高かった*2。
領域国家のおさらいと戦国時代の領域国家
都市国家あるいは都市国家連合体の体制では、都市国家の当地領域の周りに未統治の領域があり、そこには都市国家に支配されない人々が生活していた。
これと対して、領域国家は複数の都市や集落の政治勢力を一つに併合して、支配が領域(領土)全体まで及ぶ状態を言う。原則的にその領域は一つの政体(一人の国王・皇帝)に支配されている。
戦国時代では専制君主が現れ、小さな諸侯国を滅ぼして郡や県を置いて統治した。さらに未統治の領域(山林藪沢など)が開拓されてそこで生活していた人々は追放・同化・ジェノサイドのどれかの道をたどった。
これが前4世紀末の出来事だ。
遊牧民の登場
上の引用によれば、前5~4世紀に中国史における初めての遊牧民が登場する。
文献の中の最古の遊牧民は前8世紀のキンメリア人で、すぐ後に有名なスキタイが続くそうだ(遊牧民 - Wikipedia、スキタイ - Wikipedia )。
引用では中国史に現れる最初の遊牧民は北アジア=モンゴロイドだそうだが、匈奴の墓の中にはコーカソイドの骨もあったということで、ユーラシアの草原における東西(東欧あたりから大興安嶺山脈*3まで)の交流があったことが示されている。