歴史の世界

春秋時代① 東遷/鄭の「小覇」

春秋時代と言えば、「春秋五覇」つまり「覇者の時代」だが、それに行き着くまでの前段階がある。滅亡から「覇者の時代」に行くつくまでに周王朝の「東遷」と鄭国の活躍(?)がある。

この記事では以上の2つを書き、次回から「覇者の時代」に移ろう。

東遷

周王朝の王都が鎬京(西安)から洛邑(洛陽)へ遷ったことを東遷と呼ぶ。

幽王の死後から以下に話す東遷までの混乱のおかげで周王室の権威・権力が失墜して中華の支配秩序が崩壊した。これより春秋時代に入るわけだ。つまり「西周」という時代はここで終わったという意味で「滅亡した」と言っている。ただし周王室自体は滅亡していなかった。

東遷まで顛末については諸説あって定まっていないが、ここでは『概説 中国史 上』*1から吉本道雅氏の説を基本にして書いていく。*2の第3章第2節「東遷は紀元前770年か」で詳しく紹介している。))

西周の滅亡直前に話を戻す。

西周 最後の王となる幽王が廃太子を行い、伯服(伯盤)を太子に立て、廃太子された宜臼(後の平王)は 同じく廃后された母・申后と共に申へ亡命した。申は申后の実家である。

史記』周本紀によれば、申后の父・申侯が犬戎と組んで幽王を攻め滅ぼしたとしているが、『繋年』(清華大学蔵戦国竹簡の一部)によれば、王室の跡目争いと犬戎の襲撃は別物だとしている。事実がどちらかは分からないが、いずれにしろ犬戎の襲撃により西周は滅亡した。

幽王の死後、申の地で宜臼が王に即位したが、虢公翰(畿内の大諸侯の一人)が王子余臣を王に立てた。携の地で即位したため携王と呼ばれる。

二王並立の中で、有力者である晋の文侯と鄭の武公が平王側についた。そして晋文侯が携王を討滅して周王室のお家騒動は終結した(ただし権威・権力はほぼゼロまで失墜した)。

しかし晋文侯の次の昭侯が殺され、今度は晋で御家騒動が起こった。晋侯がいなくなり、残った鄭公(鄭伯?)(武公の次代の荘公)が周王朝の権力を独占することとなる。

そして荘公は平王を鄭国の影響下にある王城(洛邑、洛陽)に遷した。

以上が東遷の顛末だ。

東遷後の周王朝の力量

平王は鄭荘公と虢公を卿士に任じて周王朝の再建を目指したが、平王の次代・桓王は鄭荘公と揉めて蔡、衛、陳と連合して鄭を攻撃したが撃退されてしまった(繻葛の戦い)*3

以上のように周王室の軍事力は皆無に近い状況でなぜ滅亡しなかったのかが不思議なくらいだが、春秋時代の各地の諸侯らは王室に少しばかりの権威を認めていたようだ。

(ある国が王室を滅亡させるとそのことが宣戦布告の大義名分になるので誰もやらなかっただけかもしれない。)

鄭の「小覇」:鄭荘公の強勢

鄭の初代は桓公という。桓公は宣王(幽王の先代)の同母弟(諱は友)で、幽王の代では司徒を勤めたという。桓公畿内に所領を与えられたのが鄭である。しかし周王室の没落を承けて現在の河南省新鄭市(鄭州市の一部)*4に東遷した。以後、この場所が鄭とよばれる。つまり鄭は(畿内の所領を持つ諸侯ではなく)諸侯国になった。

上で書いたように、荘公が繻葛の戦いの戦いで桓王が率いる軍を撃破するほどの強勢を誇った。後世の学者はこのさまを「小覇」と呼び、荘公を覇者のさきがけの存在とみなした。

しかし荘公の死後、鄭においても後継争いが起こって衰退していく。

佐藤信弥/周/中公新書/2016/p147-153 参照)

群雄割拠の時代へ

佐藤信弥『周』では繻葛の戦いまでの顛末で虢公についても書いている(p150-151)。虢は文王の弟虢仲・虢叔兄弟を始祖として畿内の有力者*5であり続けた。繻葛の戦いでも虢など畿内の有力者側が蔡、衛、陳の諸侯国を指揮する地位にあった。これは彼らが西周末まで それだけの権力を持っていたことの名残りといっていいかもしれない。しかしこの名残りも この戦いで消滅する。

周王朝の威光を笠に着て威張っていた虢のような畿内の有力者たちは早々に滅び、いよいよ弱肉強食の諸侯(国)が独自に動き出さなければいけない時代に突入する。



*1:昭和堂/2016/p39-40

*2:諸説については佐藤信弥氏が『中国古代史研究の最前線』((星海社/2018

*3:桓王 (周) - Wikipedia

*4:鄭は戦国時代まで存続した。「鄭州」という名はその名残りだろう。ただし「鄭州 - Wikipedia」によれば、「鄭州」という名がずっと使われていたということでもないようだ

*5:畿内の諸侯。『周』では邦君・諸正と書いている