歴史の世界

メソポタミア文明:シュメール文明の周辺⑦ エブラ

参考文献

先史

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出典:図説メソポタミア文明/p52

エブラはシリア北部にあった都市国家。遅くとも前四千年紀末には居住(settlement)があった*1

居住の当初は従属の農村地域に支えられながら交易ネットワークの拠点の一つになっていた。おそらく南メソポタミアの羊毛の需要に応える形で交易が始められた。*2

前三千年紀

前3000年頃に王朝が興り*3、「国力は次第に増し、その絶頂を紀元前3千年紀後半、およそ紀元前2400年から紀元前2240年の間に迎えている」*4

エブラは交易ネットワークの重要な都市だった。交易相手は南メソポタミアだけでなく、エジプトもそうだった。古王国時代のファラオ(王)カフラー(前2570頃)やペピ1世(メリラー・ペピ、前2332–2287年)からの贈り物があったことから確認されている。キプロスとも繋がっていたようだ。*5

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出典:図説メソポタミア/p53

上の地図のように北メソポタミアの交易路の存在が明らかにされており、古代エジプトにおけるアフガニスタンラピスラズリはこのルートを通って輸入されたのだろう。

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ウマ科動物と車の小彫像
4頭(おそらく野ロバ)立ての車。宿駅をつなぐ遠距離交通に使われたと思われる。テル・アブラク出土。シカゴ大学オリエント博物館蔵

出典:図説メソポタミア/p53


[遺跡から出土した]粘土板には、民が様々な家畜(ヒツジ、ヤギ、ウシ)を合計20万頭所有していたと記録されている。エブラの主な商品はおそらく周囲の山地(レバノンなど)から伐採した材木、および織物(ラガシュから発掘されたシュメール語の記録にも言及されている)であった。手工芸品もおもな輸出品だったとみられ、真珠貝象眼した木製家具や色の異なる石を組み合わせて作った石像など、優美な加工品が遺跡から多く出土している。エブラの工芸技術は、後のアッカド帝国(紀元前2350年 - 紀元前2150年)に影響を与えた可能性もある。

出典:エブラ<wikipedia日本語版

前3000年頃から始まった王朝は前三千年紀後半に滅亡する。

アッカドの王サルゴンとその孫ナラム・シンはメソポタミアのほとんどを征服したが、二人とも自分がエブラを破壊したと書き記している。破壊された正確な時期についてはなお論争のさなかであるが、紀元前2240年は説の中でも可能性の高いものである。これ以後の3世紀の間、エブラは経済的な重要性を若干回復したが、以前の繁栄には及ばなかった。

出典:エブラ<wikipedia日本語版

エブラ文書

1974–76年の発掘シーズンにローマ大パオロ・マチエのチームによって発掘前24世紀のものとされる王宮文書庫で15000点を超える粘土板および断片群が発見された(実際の粘土板数は2500枚程度かもしれない)。*6

前24世紀の文書庫の発見は、シリア考古学者だけでなく、イラクの遺跡現場にいた考古学者や粘土板研究者を驚かせた。文書の多くは行政記録であったが、そのなかでじつに多くの「シュメール語彙」が使用されており、また用いられている文字サインじたい、ほぼ同時代の南部メソポタミア都市(とりわけシュルパク〔遺跡名ファラ〕やアブ・サラビク遺跡〔古代名ケシュ?〕)で発見された粘土板にみえるサインと酷似していたからである。またエブラ文書のなかには多くのシュメール語彙リストも含まれていて、それらは南部メソポタミア(おそらくアッカド地方のキシュと特定できるであろう)から直輸入されたテキストを教材として、シュメール語彙を学んでいたことが確証されたのである。それだけではなくエブラでは、シュメール語彙にエブラ語訳を与えた辞書テキストさえも編纂されている。[中略]行政文書にみえる人名や辞書文書内のセム語を手がかりとして、エブラ語の位置づけについての議論も行われてきた。発見当初とはちがって、しだいにエブラ語を東セム語と分類し、アッカド語にたいへんにちかいと考える研究者もふえてきてはいるが、西セム語とみなす説が消えたわけではない。

出典:図説メソポタミア文明/p53



*1:図説メソポタミア文明/p52、エブラ<wikipedia日本語版、Ebla<wikipedia英語版

*2:Ebla<wikipedia英語版

*3:Ebla<wikipedia英語版

*4:エブラ<wikipedia日本語版

*5:エブラ<wikipedia日本語版

*6:図説メソポタミア文明/p52