南メソポタミア(アッカドとシュメール)の統一
サルゴンという名前は『旧約聖書』に出てくるヘブライ語名であって、アッカド語ではシャル・キンという。この名前は「真の王」を意味しているが、生まれながらの王族であったならばこうした名前を名乗らないはずである。出世してから付けられた名前であり、端なくも成り上がりであることを示してしまったといえる。
『サルゴン王伝説』に語られているところでは、サルゴン王の母は子供を産んではいけない女神官であったようだ。母はひどかにサルゴンを産み、籠に入れてユーフラテス河に流したという。[中略] アッキという名前の庭師に拾われ、その後キシュ市の王ウルザババ王の酒杯官となり、やがてサルゴンは王権を簒奪した。ウルザババはそうなることを見越していたようで、サルゴンを暗殺しようと企てたが失敗したことは第三章ですでに紹介した。
河に流されたサルゴンの話は、アケメネス朝ペルシアの初代王キュロス二世(前559-530年)、イスラエル人の「出エジプト」を指導したという伝説の人モーセ、そして「ローマ建国伝説」の双生児ロムルスとレムスなどにまつわる「捨て子伝説」の最古の例である。
ウルザババ王はシュメール王名表に載っている。キシュ第4王朝の第2代。王名表にはサルゴンがウルザババ王の酒杯係だったことも載っているという。ただしウルザババが実在したことを確証する遺物はないらしい。
サルゴンがキシュ市の近くにあるアガデ市で王位を確立したということは確からしい。アガデ市がアッカド王朝の名の由来なのだが(Agade=Akkad)、アガデ市の正確な位置は今も不明だという。
アッカド王に即位してからのこともほとんど史料が無いので、前田徹氏の推測に頼ることにする。
サルゴンの治世年数は、同時代史料から確認できないので、『シュメールの王名表』に載る56年が採用されている。シュメール征服以後の治世が数年であった可能性が高いので、サルゴンは、シュメール征服以前にすでに50年近く在位していた計算になる。この期間は、ルガルザゲシの治世が25年とされるので、ルガルザゲシが即位してシュメールの統一を果たす全期間よりも長くなり、ルガルザゲシ以前に「国土の王」を名乗ったエンシャクシュアンナとも同時代を生きたと見ることもできる。
サルゴンは、長い治世中に、エンシャクシュアンナやルガルザゲシがウルクの王になり、シュメール地方の統一に邁進し、「国土の王」を名乗るのを見続けた。その間、有力都市キシュはアクシャクの台頭によって弱体化しており、サルゴンもアッカド市で自立したのだろう。サルゴンが王になるのは、エンシャクシュアンナのキシュ遠征以後と考えるのが妥当であろうが、「エンシャクシュアンナが武器で打ち倒した年」と読むことができる年名があり、サルゴンは、アッカドの王として、エンシャクシュアンナがキシュを征服したのを見た可能性がある。
- エンシャクシュアンナについては記事「メソポタミア文明:初期王朝時代⑦ 第ⅢB期(その3)初期王朝時代末の画期」で書いた。
- ルガルザゲシについては記事「メソポタミア文明:初期王朝時代⑨ 第ⅢB期(その4)初期王朝時代の終わり」で書いた。
サルゴンはシュメール地方(南メソポタミア南部)の覇権争いの末期を外側から見ていたと思われる。しかしただ傍観していたわけではないだろう。
「国土の王」と「全土の王」
サルゴンは、キシュの衰退という事態を受けて、キシュに代わるべく上流地域(アッカド地方)を統一する行動を取った。南を統一するエンシャクシュアンナやルガルザゲシに、サルゴンは好敵手の姿を見たであろうし、下流地域(シュメール地方)で「国土の王」が生み出されれば、サルゴンも都市国家を超える同等の王号を編み出したはずである。それが「全土の王」である。
出典:初期メソポタミア史の研究/p87-88
サルゴンはセム系のアッカド人ではあるが、シュメール文明の中の王であった*1。ルガルザゲシが「下の海(ペルシア湾)から上の海(地中海)まで道を切り開いた」と豪語すれば、サルゴンは上の海(地中海)から下の海(ペルシア湾)までを征服した王」と書き残した。「上」「下」が逆なのはアッカド地方とシュメール地方の上下関係が関係していると思われる。
さらにエンシャクシュアンナ、ルガルザゲシが使用した「国土の王」を唱えれば、サルゴンは「国土の王」を唱えた。
前田氏によれば(p59)、「国土の王」には都市国家から領域国家への移動を指向する意味合いが込められているが、「全土の王」にはそれに加えてサルゴンの思惑も込められている。
サルゴンが採用する王号は、王都アッカドを示す「アッカドの王」を名乗らないことで変則的である。第2代リムシュ、第3代マニシュトゥシュも同様である。王都アッカドを明示しないで、「全土の王」のみを使用した理由は、[中略]新興都市アッカドをキシュの権威を継承する都市と認知させるためと考えられる。
出典:p84
テキストで表せない文字があったので、別のところでコピーした文字を貼り付ける。
出典:Tohru MAEDA/ROYAL INSCRIPTIONS OF LUGALZAGESI AND SARGON (PDF)
前田氏によれば(p85)、上の左がキシュ王メシリムが名乗った「キシュの王」。すなわち都市国家キシュの王としての称号。「ki」は限定詞。
上の右がシュメール諸都市の王が名乗る「キシュの王」。武勇を示すために使用した称号(これに関しては記事「メソポタミア文明:初期王朝時代⑦ 第ⅢB期(その3)初期王朝時代末の画期」の第2節「「キシュの王」と「国土の王」」を参照)。
下はサルゴンが名乗った「全土の王」。限定詞「ki」をつけないと「全土」の意味になる。
前田氏の解釈によれば、「全土の王」の「KIS」にキシュの王の継承者としての意味も込められている。そして、あえて「アッカド(アガデ市)の王」とは名乗らなかった。
サルゴンの常備軍と遠征と支配領域
『シュメル』より。
サルゴン王はなぜシュメル地方の諸都市を破ることができたのだろうか。強さの秘密は常備軍を持っていたことであった。次に引用する王碑文にもそのことが書かれている。この王碑文もシュメル語とアッカド語の二カ国語で書かれ、後世の写本である。
キシュ市の王、サルゴンは34回の戦闘で勝利を得た。彼は諸都市の城壁を海の岸まで破壊した。彼はアッカド市の岸壁にメルッハの船、マガンの船そしてティルムンの船を停泊させた。
王、サルゴンはトゥトゥリ市でダガン神に礼拝した。
ダガン神はサルゴンに森(アマヌス山脈)と銀の山(タウロス山脈)までの上の国、つまりマリ市、イアルムティ市そしてエブラ市を与えた。
5400人が、エンリル神が敵対者を与えない王、サルゴンの前で毎日食事をした。(略)
サルゴン王が毎日の食事を提供した5400人の兵士がいたことが書かれていて、王に忠誠を誓う戦士集団を育成していたことがわかる。
メルッハはインダス河流域地方(エチオピア説もある)、マガンはアラビア半島のオマーン、ティルムン(シュメル語ではディルムン)はペルシア湾のバハレーンおよびファイラカ島にあたるといわれている。三カ所ともに銅の交易拠点であった。また、マガンからは閃緑岩、ディルムンからは玉葱が輸入されていた。
サルゴン王は常備軍の力によって、ラガシュ市やウル市に替わってペルシア湾を中心とした交易を掌握し、富を得た。
出典:シュメル/p175-176
『初期メソポタミア史の研究』より。
サルゴンが実施した周辺地域への軍事遠征は、多くの王碑文で顕彰され、年名にもあるように、エラムと、エラムに隣接するシムルムと、それに西北のマリに向かっていた。シムルムは下ザブ川南方域にあって中心地域を脅かす勢力であり、脅威を除くための遠征であった。
マリについては、マリ征服を記す年名のほかに、サルゴン碑文に「マリとエラムがサルゴンの前に立った」(RIME 1,12)とあり、サルゴンが自認する支配領域は西方のマリと東方のエラムを両端とする範囲である。マリからエラムまでの地域は、都市国家分立期最後の時期に領邦都市国家が覇権を巡って相争う地域であった。これがサルゴンが現実に勢力範囲とした領域であり、マリからエラムの間の領域を強調することは、支配すべきはユールラテス川流域の中心文明地域であるという理念に沿うものである。
シュメールとエラムの敵対関係は古くからあったが、アッカド王朝の諸王は、新しい動きとしてエラムの政治支配を目指した。サルゴンが遠征したとき、エラム地方には王を名乗るアワンを中心としたエラム(=スサ)勢力と、上流域のバラフシに本拠を置く勢力があり、サルゴンはこの二大勢力を撃破した(RIME 2,23-24)。
出典:初期メソポタミア史の研究/p88-89
前田氏(上の本/p88)によれば、『シュメル』で引用されている「ダガン神はサルゴンに森(アマヌス山脈)と銀の山(タウロス山脈)までの上の国、つまりマリ市、イアルムティ市そしてエブラ市を与えた」は、サルゴンがトゥトゥリ市まで行き、ダガン神に懇願しただけで支配したわけではない、とする。
Map of the Akkadian Empire (brown) and the directions in which military campaigns were conducted (yellow arrows)
- この地図が誰の治世の頃の版図なのかわからないが、都市・地域の位置の確認のため載せておく。
サルゴンはシュメール地方を征服したが、完全に支配できたわけではなかった。中央集権国家というより連邦国家といったほうが良いかもしれない。次回に書こう。
*1:前回の記事「メソポタミア文明:アッカド王朝時代① 時代区分/セム人とアッカド人」の第3節「シュメール人とアッカド人」参照
*2:著作者:Zunkir、ダウンロード先:https://en.wikipedia.org/wiki/File:Empire_akkad.svg#/media/File:Empire_akkad.svg