古バビロニア時代は南メソポタミア(バビロニア)の時代区分の一つ。
時代区分を理解した後、シュメール人最後の王朝であるウル第三王朝の滅亡の前後から話を始める。
時代区分
前回で引用した年表をもう一度引用する。
出典:中田一郎/メソポタミア文明入門/岩波ジュニア新書/2007/巻頭ⅵページ
↑にあるように、古バビロニア時代の歴史の範囲は以下のようになる。
小林登志子氏によれば *1、 古バビロニア時代はウル第三王朝が滅びる前2004年からバビロン第一王朝が滅亡する前1595年までなのだが、わかりやすいように、ざっくりと「古バビロニア時代=前二千年紀前半」としたほうが覚えやすい。
古バビロニア時代は
- イシン・ラルサ時代(前2004-前1784年頃)
- バビロン第一王朝時代(前1784年頃-前1595年)
と分けられる。
この歴史の主役はアムル人
上の年表には紀元前2000年あたりに北部メソポタミアで「アムル人・フリ人侵入」とある。フリ人は北部だけだったが、アムル人は南部にも侵入していた。
ここでは、フリ人の話は別の機会に書くとして、アムル人の話をする。
前時代の主役はシュメール人とアッカド人だが、アムル人が取って代わった。
メソポタミアに侵入してきたアムル人は傭兵をやるようになりやがては将軍などの要職に登用されるようになった。そして最後は王を簒奪した。
この交代劇は、別の時代の話になるが、西ローマ帝国が滅亡する直前の時期のローマ人と蛮族ゲルマン人の交代劇と同じだ。ゲルマン人もが東西ローマ帝国の傭兵や要職に就いていた。
さて、少しだけ言語の話をする。
アムル人を示すアッカド語の「アムル」やシュメール語の「マルトゥ」は元来メソポタミアの西の地域を指す地名であり、そこから二次的に西の方角をアムルもしくはマルトゥと呼ぶようになった。それが転じ、メソポタミアから見て西方に位置するシリア地方のビシュリ山周辺を中心に遊牧民として生活していた人々をアムルもしくはマルトゥと呼ぶようになったとされる。
ウル第三王朝が滅亡した後、メソポタミアの諸都市が独立した(都市国家に戻った)のだが、これらの都市の王のほとんどがアムル人だった(イシン第一王朝が広い領域を支配するのだが、そのことは後述する)。
ただし、行政文書の記録がアムル語ではなく、(ウル第三王朝時代に使われていた)アッカド語で記されていた。
アムル語とアッカド語の違いは方言程度だと言われている。(小林登志子/古代メソポタミア全史/中公新書/2020/p86)
ウル第三王朝の滅亡:イビ・シンとイシュビ・エッラ
この時代の前がウル第三王朝時代。ウル第三王朝は北メソポタミアも支配下においていたが、この王朝の最後の王イビ・シンの頃には既に滅びる過程に入っていて、北メソポタミアへの異民族の侵入を防ぐことはできず、紀元前2025年には、主要都市のひとつエシュヌンナが独立した。
紀元前2022年頃、南部メソポタミアでは大規模な飢饉が発生した。
イビ・シン王はイシュビ・エッラに食料調達を命じてイシン市へ派遣したが、イシュビ・エッラはイシン市を拠点にウル第三王朝に反旗を翻し、イシン第1王朝を建設した。
イシュビ・エッラ(イシュビ・エラ)はアムル人だが、この頃はウルの将軍だった。彼はウル王を見限り、イシン市で王となり独立した(2017年)。これがイシン第一王朝と呼ばれ、イシン・ラルサ時代の幕開けである。
(ちなみに、「イシン第二王朝」はずっと後の時代に興る王朝なので、ここでは言及しない。)
2004年、ウル市はエラム(東方の蛮族)に襲われ、イビ・シン王がさらわれてウル第三王朝が滅びる。