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メソポタミア文明:アッカド王朝時代① 時代区分/セム人とアッカド人

シュメールを統一しかけたウルク王ルガルザゲシを打倒して、アッカドサルゴンがシュメール統一を果たす。サルゴンより始まる王朝をアッカド王朝と呼び、この時代をアッカド王朝時代と呼ぶ。

時代区分

前2900-2335年 初期王朝時代
前2335-2154年 アッカド王朝時代
前2112-2004年 ウル第3王朝時代

アッカド王朝時代は初期王朝時代とウル第3王朝時代の間というのが一般的だ。しかし、アッカド王朝第5代シャル・カリ・シャリの治世、前2200年頃に異民族勢力グティがシュメールへ侵入してシュメールの統一王朝アッカド王国は崩壊した。アッカドは王朝自体は存続したものの、その勢力範囲はシュメールのごく一部に過ぎなかった。 グティはシュメールを統一する術(すべ)は持たず、シュメールは分裂し、かつてのシュメール諸都市は独立した。

このシュメールの諸国分立の時代は一般的にアッカド王朝時代に含まれる。ウル王ウル・ナンムがシュメールを統一してウル第3王朝を建てた時、アッカド王朝時代は終わる。

セム人とアッカド

アッカド人はセム系の民族で、セム人とはセム語族の言語を話す諸民族の総称(俗称?)である。セム語族の原郷(原産地、homeland)は諸説あり定まっていないが、小林登志子著『シュメル』(p171)*1によれば、アラビア半島南端の地、現在のイエメン共和国と言われている。

さらに『シュメル』(p171)によれば、半島から南シュメールに入っていったのが東方セム語族に属するアッカド人だ。

アッカド人がいつ頃南シュメールに移住したかは分からないが「Kish(Sumer)<wikipedia英語版」によれば、前3100年頃(ジェムデト・ナスル期)には南シュメール北部のキシュで大きな勢力を持っていた。ただし、「アッカド人」と呼ばれるのはアッカド王朝が成立した以降のことだ。南シュメール北部の地域がアッカドと呼ばれるのも同じ。

シュメール人アッカド

バビロニア[南メソポタミアのこと。引用者注]においては、シュメル人は南方、アッカド人は北方に住み分けていたようだが、両者は二分されていたのではなく、混在もしていた。

シュメル人とアッカド人の間には民族対立はなかったのであろうか。この観点からの研究もかなりこれまでされてきたが、どうやら深刻な民族対立はなかったようだ。シュメルの都市国家アッカドサルゴン王に切りしたがえられたが、これも民族対立に起因するものではなかった。

シュメル人とアッカド人はともに都市生活をし、神を崇拝し、文化を持つ民であって、共存していた。

出典:小林登志子/シュメル/中公新書/2005/p183

シュメール人アッカド人は言語が違い、おそらく顔立ちもちがったが、共通の神話を持って信じていたことは間違いない。シュメール人が作った文明・文化をアッカド人がそのまま受け入れたといったほうがいいかもしれない。

さらに言えば、シュメール人アッカド人は自分たちの住む場所(南メソポタミア)を「文明・文化の領域カラム(kalam)」として、その周辺地域を「クル(kur)」と呼んで野蛮視していた。*2

・・・ただサルゴンを、セム人によるシュメール人との争いの勝利者と理解すべきではない。サルゴンに支配権を与えるのは、シュメール人最高神であるエンリルである。サルゴンは捕らえたルガルザゲシをニップルのエンリル神殿まで連行しているし、彼の王碑文はエンリル神殿に奉献されている。彼はシュメール文化の庇護者でもあった。彼は娘をウルの月神ナンナの女官とし、彼女はシュメール語で多くの作品を書きのこしたという。これ以後、約2000年にわたって、メソポタミアの王はサルゴンにならって、娘をウルのナンナ神殿に送りこむであろう。

出典:前川和也編著/図説メソポタミア文明河出書房新社(ふくろうの本)/2011/p37

アッカド語

前 3000年頃から紀元頃まで,メソポタミアで用いられていた言語。アフロ=アジア語族のセム語派に属し,単独で北東セム語をなす。前 2000年頃からアッシリア語とバビロニア語の二大方言に分れたため,アッシリアバビロニア語ともいわれる。セム語のうち年代的に最古のものであるが,セム祖語の面影はあまりとどめていない。これはセム祖語から最初に分れ,しかも系統関係の不明なシュメール語の影響を受けたためと考えられている。シュメール人から受継ぎ発展させた楔形文字で書かれ,最古の文献は前 2800年頃。前7~6世紀に徐々にアラム語に圧倒された。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典<コトバンク

アッカド語wikipedia」によれば、アッカド語の語順はシュメール語と同じSVO。セム語の大半はVSO。

アッカド王朝がメソポタミアを支配するに及んで、アッカド語がシュメル語に取って代わる。アッカド王朝が滅亡した後も、前2000年紀になるとこの傾向は本格化して、シュメル語はラテン語と同じように教養としては学ばれても、日常語としては死語になる。

アッカド人は自らの言語アッカド語を表記するために、シュメル人が発明した楔形文字を借用した。中国語を表記するために発明された漢字を、日本語を表記するために日本人が借用したのと同様である。日本人は仮名文字を作ったが、アッカド人はこうした工夫はせずに楔形文字表音文字として使用した。

前14世紀前半の「アマルナ時代」になると、アッカド語古代オリエント世界の共通語として使用されていた [以下略]

出典:シュメル/p176-177

アッカド語wikipedia」によれば、主にアッシリア人カルデア人バビロニア人)やミタンニ人に話されていた。

*1:中公新書/2005

*2:前川徹/メソポタミアの王・神・世界観/山川出版/2003/p109-110