歴史の世界

メソポタミア文明:シュメール文明の周辺⑥ ペルシア湾岸文明(その3)バールバール文明

前回書いたウンム・ン=ナール文明からバールバール文明に移る。

バールバール文明

ウンム・ン=ナール文明があったオマーン(マガン)には銅鉱山と湾岸交易の中枢(首都機能)があったが、やがて、前三千年紀末または前2000年頃、首都機能は銅鉱山と切り離され、湾岸交易の支配者たちはバーレーン島に移った。あるいは支配者の交代が起こったのかもしれない。これがバールバール文明だ。(後藤健/メソポタミアとインダスのあいだ/筑摩書房/2015/p146-152)

オマーンのウンム・ン・ナール文明がマガンと呼ばれるのに対して、バーレーン島のバールバール文明はディルムンと呼ばれた。むかしに湾岸地域の代名詞『ディルムン』が復活したようだ。

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出典:メソポタミアとインダスのあいだ/p165

さらなる植民、ファイラカ島へ

湾岸における古代文明は、常にメソポタミアの要求を満たすために存在した。そうするためにはいかなる努力も惜しまなかった。もちろん湾岸文明側にも莫大な利益があったからだ。バールバール文明が、成立直後の前2000年頃に行なった重要なイノベーションは、より湾奥に位置するクウェイト沖のファイラカ島に、対メソポタミア貿易の拠点を設置したことである。そしてメソポタミア人のディルムン観はすべてここから作られた。

出典:p155-156

ファイラカ島は上の地図にあるようにメソポタミアの湾岸のすぐ南の小島だ。ここはディルムン国(バールバール文明)の出先機関ショールーム付きの「海外営業本部」だった(p200)。

ウル第三王朝時代滅亡後のイシン・ラルサ時代のメソポタミアにとってディルムンはファライカ島のことだった(p118)。

経済的目的でそこを訪れるメソポタミアの商人は、その地はディルムン国の出先で、本土はより遠方にあるバハレーン諸島であるという情報を、ファイラカで得ていたであろうが、ビジネス上そこを訪問する必要はなかった。

出典:p188

政治上は、ウル第三王朝時代以前とは違い、イシン・ラルサ時代のメソポタミア諸勢力は湾岸地域に影響力を発揮することはできなかったようだ。

ファライカ島には銅加工の工房もあった。オマーンにあった工房が消費地メソポタミアに近いファライカに移転した。「地域ごとの役割・機能の分化は都市文明の大きな特徴である」(p152)。

ちなみに、ウンム・ン=ナール文明衰亡後のオマーンは、ディルムン人の支配下で銅鉱石の採掘・精錬が行われる場所として機能した。

衰退

ディルムン国(バールバール文明)は、その前身であるマガン国(ウンム・ン=ナール文明)の役割を引き継ぎ、メソポタミアとインダスにおける二つの大農耕文明の間で、イランの陸上交易文明とリンクしつつ、商業的利益を上げることを最大任務とする海上交易文明であった。前二千年紀初頭におけるメソポタミア南部の衰退、インダス文明の衰亡が、ディルムンの衰退を引き起こす契機となったのである。

緩やかに進行する衰退の中で、[中略]ディルムンの首都と交易活動の中心はファイラカ島に移っていたであろう。この頃でも、バハレーンとスーサとの交易関係は以前続いていた。バハレーンがファイラカの支配下にあり、インダス文明が消滅し、メソポタミア南部が政情不安となった時期のディルムンは、エラムのスーサを最大の交易相手としたであろう。

出典:p255

その後、ファライカ島にはメソポタミア南部の勢力「海国」からの移民の急増し、「海国」の滅亡(前1475年)の後、カッシートの影響下に入って一時期繁栄するが、その後衰亡したようだ。

前回の記事にもすこし書いたが、銅の供給地としての役割も、アナトリア、東地中海地域に取って代わられ、ディルムンとの交易の記憶すら薄れていった。(前川和也・森若葉/初期メソポタミア史のなかのディルムン、マガン、メルハ/インダス・プロジェクト年報/2007<pdf>)