『史記』などに書かれている殷建国の伝承(湯王が暴君桀王を倒す話)はフィクションである。
殷建国の時期は文字資料が無いため本当は何があったのかは分からないので、考古学の資料から推測するしかない。
「殷」または「商」という呼称について
「殷」は次代の周王朝によって命名したもの*1。日本での中国史ではこの呼称を使用している。
「商」は本来は殷王朝後期の王都の呼称(大邑商)*2 *3。現代中国ではこの呼称を使用している。
殷の前身、下七垣文化(先商文化)
殷王朝勢力の建国以前は「先商文化」と呼ばれている。「先商文化」の詳しい年代は分からないが、黄河下流域の北岸にあった下七垣文化まで遡れるようだ(ただし、黄河は現代の川筋より北にあった*4 )。
下の図は二里頭文化(遺跡)の2期から3期にかけてのもの(二里頭文化(遺跡)の時代区分については、記事「二里頭文化③ 二里頭遺跡/中国で最初の国家誕生」参照)。
二里頭文化圏と下七垣文化圏のあいだにあるのが「輝衛文化」だが、二里頭文化3期末に下七垣文化に呑み込まれた*5。「3期」の終わり前1560年、殷建国(鄭州商城=二里岡遺跡の建設)が前1600(あるいは前1580年)ということなので、建国後に輝衛文化を併呑したことになる。
そして前述の通り、殷建国。
その後に、二里頭文化を併呑する。
時代区分
殷代は前1600年から前1046年とされている(殷 - Wikipedia)。
下記の区分は考古学の遺物から推測されるおおよその目安。
- 前期(前1600(または1580)-1400年)
- 中期(前1400-1300(または1320)年)
- 後期(前1300(または1320)-1046年)
※1. 「前1400年」は「夏商周断代工程」(2000年)*6より。
※2. 「前1300(または1320)年」は「殷墟 - Wikipedia」より(殷墟=大邑商は殷王朝後期の王都)。
前期の王都は鄭州商城(二里岡遺跡)。
中期は混乱期で実像がよく分かっていない時期。
後期の王都は大邑商(殷墟)。この頃より、文字資料が出てくる。つまり、中国史における文字が誕生する時期。
詳しくは別の記事で書く。